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ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

「ひろやすの部屋♪」~葵寮ブログ管理人インタビュー1


夜の震災対策室からこんばんは、オレンジ・やきのりです。

ここ数日、夜室長の業務命令によりブログを離れていました。オレンジ・やきのりファンの皆さん(えっ、そんな人いないって?)、スミマセン。そして、その間、ブログ庶務担当業務もこなしてくれたピンク・たろうさん、本当にありがとうございます。

今日からは再び夜の震災対策室メンバーと共にブログを盛り上げていきたいと思います♪


さてさて、この間、何をしていたのかと言うと…

「ひろやすの部屋」の原稿おこしです(笑)。夜室長に別室に監禁され、「ディフェンスに定評のある池上」や「スッポンディフェンスの一ノ倉」に監視されていた…というのはウソですが、決して、ブログネタのためにスラムダンクを何度も読み返していたわけではありません(汗)。


今回の「ひろやすの部屋」には、葵寮ブログの管理人さん(経済経営学類4年生のマキコさん)にお越しいただきました(葵寮ブログについてはコチラの記事を参照ください)。地震のときの様子や地震後の葵寮の対応、ブログ開設の経緯など、盛りだくさんな内容でお届けします♪

ちなみに、葵寮ブログでも、管理人さんの感想やインタビュー時の裏話などが紹介されています。要チェックや!


*****

(ひろやす)地震発生時にはどこで何をしていたの?


(マキコ)金谷川2時45分発の電車で福島に向かっていました。南福島駅手前のトンネルを抜けてすぐの辺りで地震にあったんですが、最初は電車が徐行し始めて「なんだろう?」っていう感じでした。その後、急に横揺れが来て、電車が線路から外れるかと思いました…


(ひろやす)地震、長かったもんね…その後はどうしたの?


(マキコ)2時間ほど閉じ込められていました。その間、電気が止まって、電車とJR本部との連絡が取れなくなり、プチパニック状態になったりしましたが、若い人は冷静でしたね。むしろ、年配の人のほうが車掌さんに詰め寄ったりしていて、びっくりしました。また、電気が止まったので、トイレの水も流れなくなり、トイレのある車両は、臭いが相当充満してましたね…。

その後、社員らしき人(50代くらいのスーツの男性)が「福大生は何人いますか?」「南福島まで歩いたら福島行と金谷川行のバスを出すから歩きましょう!」というので、みんなで歩きました。ところが、南福島駅員は「そんな話は聞いていません」の一点張り。気づいたらスーツ男性は消えていました、ただの一般人だったみたいです(苦笑)。

仕方ないので、JRの駅員に「バスを呼んでほしい」「タクシーを呼んでほしい」とお願いをしたのですが、全く対応していただけませんでした。私たちのような大人はまだしも、困っている子どもたちの対応もしないという点には、さすがに腹が立ちましたね。とはいっても、腹を立てているだけでは子どもたちは帰れないので、私たちでタクシーをなんとか確保し、子どもたちや遠方の人から順番に家に帰しました。結局、最後に私たちが金谷川に帰ってきた時には、夜の10時を過ぎていたと思います。

金谷川についた後、「食糧が足りなくなるかも」と直感的に思ったので駅前のコンビニに行ったのですが、もう既に何もありませんでした…。そこまでの状況なのかと思って焦りましたが、寮に戻るまでは一人ではなかったので、恐怖心はそこまでではなかったです。むしろ、寮に戻って一人になってテレビをつけて、はじめて自分の置かれた状況を知り、恐怖心でいっぱいになりました。


(ひろやす)やっぱり一人になってからが怖かった?


(マキコ)はい。その日は恐怖心で眠れず、朝までテレビを見ていました。実家が南相馬で、海から3キロのところなんですが、夜明けごろから南相馬の映像がたくさん入ってきて、もう、現実とは思えなくて…。実家が本当に心配で…。

結局二日間は連絡が取れなかったのですが、その後、無事を確認できました。母や弟に聞いたところによると、津波警報が出た直後は、祖母とともに南相馬市内の体育館に避難したそうですが、津波と原発のことがあるので、宮城県の丸森町に1週間、福島県の矢吹町に1週間居たようです。

その後実家が津波の被害を免れたようだという情報を得て、母と弟は実家に戻ったそうです(実家は、国道6号沿いの大甕と言う地区なのですが、津波は6号のところまで来ていたので、本当に奇跡的に助かったみたいです。同じ6号沿いでも、友人の住んでいる雫という地区は全滅でした)。ちょっと心配ですが…。


(ひろやす)まだ一度も南相馬へは帰っていないの?


(マキコ)はい。行政ブログで先生方が南相馬を訪れている様子を見て、本当に実家に帰りたくなりましたよー。一度帰るチャンスはあったのですが、葵寮の入寮手続業務との関係で帰れませんでした。


(ひろやす)そうなんだ、大変だね。寮の方は、今どんな感じなんですか?


(マキコ)2年以上の寮生が100人程度いるのですが、そのうち20人強くらいは寮に戻ってきています。戻ってきた人たちも、気仙沼の実家が津波で流されて親戚の家を転々としていた人や、いわきで避難所生活を送っていたけれども避難所が閉鎖されるので寮に戻ってきた人など、大変な経験をしている人が多いですね。

その他に、結構な数の新入生が入寮する予定なので、現在はその対応にかかりきりになっています(笑)。


(ひろやす)それは大仕事ですね。でも、地震直後の対応の方がもっと大変だったんじゃない?


(マキコ)地震の直後は、私の住んでいる3階のメンバーを中心に、共同で生活するようにしました。各自のストックしていた食べ物等を持ちだして共有し、炊き出しチームや水汲みチームなど役割分担をしていました。

また、誰か一人は必ずリビングに常駐するようにして、リビングにテレビを設置し(普段は置いていない)、ニュースをチェックするようにしていました。リビングにはノートを置いておき、重要なニュースを随時書きこむようにしました。そうすれば、引き継ぎ時に何があったかを伝えられますし、時系列が分かりやすくなるというわけです。

ノートは、食べ物や薬の管理にも活躍しましたね。ただ、野菜がなかなか手に入らなくて、口内炎がはやりました(苦笑)。


(ひろやす)県外に避難するということは考えていなかったの?


(マキコ)寮としては、「交通手段を確保できた人から実家に帰す」という考えでした。たとえば、車を持っている信夫寮生が秋田に帰るという情報を得たときには、秋田出身の葵寮生を乗せてもらうようにするといった感じです。17日の行政チャーターバス、18日の全学チャーターバスが出たので、そこでも帰れる人には帰ってもらって、最終的には6人が寮に残りました。


(ひろやす)そんなに少なかったっけ…?〔以降、次回に続く〕


(ひろやす)次回は、その6人がどうやってその後を過ごしていったか、そして、いよいよ、葵寮ブログの誕生秘話へと話が展開していきます。要チェックや!(あっ、オレンジ・やきのりの口癖が移ってしまった…)

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