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ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

くぬぎの3月11日

 みなさんこんにちは、功刀俊洋です。

 今日は、私の3月11日体験をお話したいと思います。


 3月11日は、午前中S先生と学友会の預金の件で駅前の銀行に行き、その足で新庁舎見学の件で市役所にお願いにあがり、午後は大学に出勤して、研究室で大学院の授業のために「市民参加」の文献検索をしていました。2時半ごろ図書館に本を借りに行くと、工事中のため閉館で、しかたなく研究室に戻ろうとしました。ここまでは年度末の平常の半日でした。

 行政棟の前に来た時、駐車場の屋根がガタガタと大きな音を立て、大地が揺れ始め、なかなか止まりません。今まで一度も経験したことがない長い揺れでしたが、最初は、大地震とは考えませんでした。なぜなら地震に弱いはずの経済棟のビルにひびが入ったり、窓ガラスが割れて落ちてきたりしなかったからです。学生・教職員の避難が始まり、8階のT、S、F先生と駐車場に集りました。私が「たいした地震じゃないよね」と言うと、F先生が「それは認識が甘いんじゃないですか」と返し、どうやら8階の研究室と中庭では地震体験の質が違ったようです。


 一応地震がおさまり、副学長のハンドマイクで、役員・幹部職員や学生課・施設課の職員を除いて、学生・教職員は一斉に帰宅することになりました。しかし、JRが止まったようで、私には歩いて帰るしか方法がありません。今まで20年間一度も徒歩帰宅の経験がありませんので、戸惑い、心細くなりました。しばらく、S棟学生課前のテレビを見ていると、名取川を遡る津波の実況中継、これで大地震・大津波らしいことがわかり、JRの復旧は無理で、自力で帰宅するしかないと判断しました。

 コートとカバンを取りに、行政棟7階まで階段をあがりましたが、やはり怖いでしたし、もう誰もいません。研究室のドアを押しましたが、少ししか開きません。思いっきり強く押して、ようやくドアが半開きになり、中を覗いた時はショックでした。本の海。左右の本棚からほとんどの本が落下し、足の踏み場がありません。ガラス戸付きのスティール書庫と木製の本棚が転倒して危険です。当分、研究室は利用できず、日常の職場の生活にはもどれそうにないと判断しました。急いでコートとカバンを本の下から探し出して帰宅しました。


 1階に下り中庭に出ると、学生も同僚も、もう見当たりません。歩き出すと事務棟の前で人間発達のO先生と出会い、結果的に二人で福島市内まで歩くことになりました。一人ぼっちじゃなくてよかった。ちょっと安心。どうも徒歩組としては遅い帰宅になったようです。

 途中で、タイヤが道路脇の割れ目に落ちて動けない若者の車に出会いました。うしろから歩いて来る3~4人の男性を集めて、O先生と車を持ち上げますが、なかなか。結果的に車は道路にもどせました。大成功。ところが、先頭に立って車を持ち上げた一人の「昔の若者」はこれでギックリ腰になってしまったようです。「おれ帰るわ」。自転車を押してのろのろと大学の方向に帰って行きます。「火事場のバカぢから」はやめた方がいい、と貴重な体験をしました。

 また二人で歩き出すと、私たちが車をどんどん追い抜いていきます。自動車は長蛇の列で全く動きません。伏拝の坂に差し掛かると、崖崩れで数軒の家が傾き、トラックが横転。おおきな水道管から水が滝のようにあふれ出ています。


 南福島の方向に坂を降りていくと、退職した経済学部のN先生が登ってきます。「森合の図書館から歩いてきた」とぼそり。「へえー、まだ研究をつづけているんだ」と私は頭のなかでつぶやき、脱帽。どうやら、市内の交通機関やインフラが崩壊しているようです。段々事態の深刻さがわかり始めて、妻と自宅が心配になってきました。南福島に近づくと、あちこちの家の屋根や壁が崩れ落ちています。老人が家の前を掃除しています。「仏壇がひっくり返った。家のなかはメチャクチャ、大被害ですよ」と吐き出すように語り掛けてきます。


 中心街に近づくと、もう暗くなり、道の西側から「断水だ」という声が聞こえます。東西南北停電で、信号が機能せず、各所で民間人が十字路の中央に出て、渋滞の車の列を交通整理していました。これが本当の「新しい公共」か。駅に近づくと、ビル街全体が真っ暗で不気味でした。O先生は、大学院生のアパートを訪ねて見るそうで、この辺でわかれました。「気をつけてね」。

 辰巳屋のフロントを覗くと、真っ暗ななかでたくさんのお客さんが毛布に包まって寝ています。受験生らしい若者が何人も私に「公衆電話はどこですか」と尋ねてきます。「JRのなかにありますよ」。「使えないからこっちに来たんです」。私は、JRの構内の電話しか知らなかったので、回答不能。ケータイを持ってない若者が何人もいるとは最近めずらしいな。私はケータイを持たないので、意味がわかりません。


 バスが不通、タクシーも見当たりません。あと一時間歩いて自宅に帰るのかと思うと、急におなかがすいてきました。多分、いつものように、帰っても夕食はありません。いつものように、炊飯器のスイッチは入れて来ませんでした。まずは、どこかメシにありつける所はないか探しましたが、商店街全体が真っ暗です。

 新浜公園まで来ると、電気がついている一画があり、飲み屋を発見。「昔のおねえさん」が店の前を掃除しています。「食べるものありますか」。なんと飲み屋で、ビーフストロガノフを口に掻きこむことができました。これは自宅では一生味わうことができません。ラッキー。でも今思い出すと、どんな味だったか覚えていません。ひとしきり三人で地震談義。酒瓶や食器がかなり割れたようです。店のオーナーは蓬莱の住人で、私は「車は無理、帰らず今夜はここに泊まったほうがいい」とアドバイスしました。

 4号線に出て、また歩き始めると「今のおねえさん」といっしょになり、「これから保原まで歩いて帰るんです」、「私はこの近くです、気をつけてね」。ようやく自宅に辿りつくと、妻も自宅も無事でした。とりあえず本棚から本が崩れ落ちていただけでした。その晩はまだお風呂に入れました。そのあと、妻と何をしたかよく覚えていません。


 3月12~13日は、何かをしようとしても何も手がつきません。新聞は来ませんでした。結局テレビの報道番組漬けで、自然の巨大な威力と人間の存在の無力さ。3月14~15日は福島大学閉鎖、教職員自宅待機、ところが、わが学類では14日の午後に臨時教員会議が開催され、ここから、私は抗し難い二つのパニックに飲み込まれて、悪夢のような毎日が始まりました。しかし、このパニックは悪夢でなく現実なので、それを現実として受け入れて、毎日を自分の足で、できれば楽しく、できれば多くの仲間たちと、歩いて行くしかないと覚悟しました。

次は、今井さんの登場です(あれ、松野さんは?)。

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