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ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

「ひろやすの部屋♪」~故郷女川の復興に向けて…今野順夫さんに聞く1

 塩谷@夜室長です。以前、「自然のちから」でお伝えしたように、先週15日、福島大学関係者など7人で宮城県女川町に行ってきました。女川町は推定高さ18メートルの大津波に襲われて、町の中心部が壊滅的な被害を受けました。
今野順夫さん(前福島大学長で労働法担当)は女川町の出身です。今野さんに、ふるさと女川町の復興支援のために研究者としてどのようなことができるのか一緒に考えてほしいと言われ、同行させていただくことにしました。
 福島大学に戻ってから、今野さんの研究室にお邪魔して、女川のこと、子ども時代のこと、復興のために大学ができることなど、およそ3時間にわたってお話しをうかがってきましたので、その一部をご紹介しましょう。

○(ひろやす)今野さんは、今回で3回目の女川訪問でしたが、どんな印象を受けましたか?

(今野) 最初に女川に行ったのは、3月25日のことでした。それまでは通行規制やガソリンが入手できなかったりで、なかなか女川に行きたくても行けなかった。震災から2週間が経っていたから一番ひどいところは見ていないんです。

 写真や動画では見ていましたが、本当に瓦礫の山で、何がどこにあったか分からない。前の状況と今の状況が重ならなくて、自分の記憶とダブらない。小中学校に通うときに毎日眺めていた女川湾の赤い灯台もなくなってしまった。かろうじて、山の形を頼りに自分の家がどこにあったかを思い出しました。

 高いビルが倒れて、自分の背よりも小さくなって、海まで見通せて、うんと町が小さくなった気がしました。最初に行ったときと比べると、今回は、ずいぶんと瓦礫が減ってきれいになった印象があります。一緒に行ってもらったけど、恥ずかしかったです。本当は美しいふるさとを見てもらって、美味しい魚を食べて欲しかったんだけど…

  *当日、今野さんが撮影した写真は、こちらをご覧ください。

○いつ頃まで女川で暮らしていたのですか? 子ども時代の思い出は?

(今野) もともと「今野」姓は渡来人の名前と言われているんだけど、先祖は、宮城・大崎地方から女川に来たようです。もとから女川にいる人は、ほとんど「阿部」姓か「木村」姓です。僕は、敗戦の前年の1944年に女川で生まれて、中学2年の14歳まで女川で暮らしていました。

 女川の産業といえば漁業でほとんどの家が水産業に係わっていました。いまのように加工や養殖はなくて、鮮魚中心でしたね。家の向かい側には、ホヤ専門店がありました。戦後、母はホヤの行商をしていて、背中の赤ん坊の僕が泣くと、ホヤを水洗いして口に含ませると泣きやんだそうです。僕はホヤによって大きくなったものです。実家は戦前から漁業向けの製材業をやっていて家にはたくさんの従業員がいて賑やかでした。気(木)が多いのはそのせいかな(笑)。

 始めのうちはカキを入れる木樽をつくっていましたが、カツオを入れる箱をつくるようになりました。そのうち、カツオの仲買をするようになり、福島や茨城にもトラックに乗って売りに行ったものです。朝は戦争のような忙しさでしたね。小学校のときは、4時に起きて、6時くらいまでは、仲買の手伝いをして、それから学校に通っていました。僕の役目は、父が競り落とした魚入りの箱が重量計に次々と乗せられていくので、あらかじめ測っておいた空箱の重さを引いて魚だけの重量を割り出すことでした。おかげで、引き算が得意になりました。

 小さい頃は近海での捕鯨も盛んでしたね。三船敏郎主演の「港へ来た男」という映画(1952年東宝)は、捕鯨船の船乗りと地元の女性が恋愛をする話ですが、女川がロケ地になりました。女川にはニッスイ(日本水産)の解体場があって、クジラの解体作業を見に行ったものです。子どものときのお弁当は、クジラの味噌焼きがご飯の上にのっていました。

○子どもの頃と比べて、女川町はだいぶ変わりましたか?

(今野) 戦後ピーク時には2万人くらいの人口でしたが、いまは1万人くらいまで減っています。やはり大きな出来事としては東北電力の女川原発(女川町・石巻市)の建設でしょうか。1980年から建設が始まっています。女川町の中でも、出島(いずしま)や江島(えのしま)の漁師の人たちは原発反対で、女川の街中の人は原発賛成でしたね。でも、漁業補償でお金を手にすると、漁師が札束を袋に入れて飲み歩いて、賛成した側の街中の人が反発していましたね。

 現在、立派な町民病院や総合体育館が建っているのは、原発のお蔭ですが、どれだけ地域の経済に貢献しているのか疑問ですね。原発を建設しているときは一時的に働く場所ができますが、長続きしません。固定資産税も減っていくので、1号機(運転開始1984年)、2号機(同1995年)、3号機(同2002年)と次々と増設してきました。

 これまでにも隣の石巻市との合併話が出たことがありましたが、女川町は地方交付税の不交付団体なので借金がある石巻市とは合併せずにきました。でも、この震災で今後はどうなるのか。女川は自立できずに消滅してしまうのではないか、石巻に併呑されてしまうのではないかと、心配しています。

○女川町を離れてからは、町とはどのように係わってきましたか?→次回に続く…

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