ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

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ぴたは政治学者か? えー、ウソでしょ~!(2)

 こんにちは。ぴたです。
 熊本や大分での大きな地震に、多くの人が心を痛めています。
 東日本大震災のあと、やるべきことがたくさんあり、苦しんだ私たちでしたが、今回は、「自分には何ができるのだろう」、と悩んでばかりいます。当時、多くの方々からいろいろな支えと支援を頂いた私たちとしては、できる限りのことをしたいと思っているのですが、「何を」、という最も大事なところがなかなか見えません。
 熊本や大分など九州の皆さんがこれから、長い間にわたって、避難生活や復興という課題に取り組まなければならなくなることを考えれば、遠く離れた私たちにもできることが、これから見えてくるのではないかと思います。
 行政政策学類内では、「とりあえず」、ということで、義援金集めが行われ、近く、熊本大学にお届けすることになっています。
 また、大学としても、遅ればせながら、東日本大震災後の経験をお伝えする福島大学なりの取り組みを始めたようです。
 熊本大学にお世話になった知り合いがたくさんいるぴたも、東日本大震災の際の支援へのお返しを、少しでもできればと思っています。
 今日は、熊本大学の紺屋博昭さんの勧めで少しずつ書いている、「原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活」の続きを少し掲載させていただきます。以前、こちらにも載せてもらった記事(→コチラ)の続きです。

******
原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活(2)
(著者)福島大学行政政策学類 ぴた

□ はじめに

 実を言うと、私は、2011年3月11日に福島を襲った激しい揺れを経験していない。翌日からの高知市への出張を控え、実家の香川にある自宅に着いた直後であった。出迎えに来たはずの父親が、青ざめた表情で、「東北地方が恐ろしいことになっている」、と言っている。慌ててテレビをつけると、地震のニュースに加え、大津波警報が発令されて、東北地方が大変な事態になっていることを伝えている。南相馬市の波の音が聞こえるほど海岸近くに自宅のあった友人、岩手県釜石市に住む大学時代の親友の両親――その安否が気になる。その後、福島県内の原発が危険な状況に陥っているというニュースが加わり、不安で胸が張り裂けそうになった。
 そんななか、大学の同僚からは、「福島に戻ってこないほうがいい」、というアドバイスが届いた。「自分たちも、小さな子供を抱え、家族と福島を離れようとしている。県外にいるのなら、そこに留まるほうがいい…」。
 そのメールを読んで私は、逆に、福島に戻ることを後押しされたように感じた。自分には、幼い子供も守るべき家族もいないのだから。実家のテレビで福島の状況を見て以降、すぐにでも福島に戻りたいと思っていたが、それを躊躇する必要がない、ということに気付かされたのだ。その時、「これは自分がそうしたいと考えて決めたことなのだから、あとで後悔はしないようにしよう」、と強く思ったことを、今でもはっきりと覚えている。
 福島に戻りたい、と思った理由のひとつは、私の姪である。まだ中学生だった姪が、私が喰らいつくように見ているテレビの前を、携帯電話を使ったゲームをしながらうろうろとしていた。焦りで気分が悪くなっている自分と、のんびりゲームを楽しんでいる(ようにみえた)姪との間の意識の差に、私は次第に耐えられなくなった。東北に知り合いや友人がいるかどうかということが、これだけ大きな意識の差を生むという現実を、その後幾度となく感じさせられることになるが、震災直後の姪の振る舞いに、私は、「こんな人たちとは一緒にはいられない」、という切羽詰まった気持ちになった。
 もう一つの理由は、福島にいる学生のことであった。福島大学は全国で1,2を争う小規模国立大学である。大学全体で4年間にわたって少人数教育のゼミが必修科目となっており、私の所属する行政政策学類では、ゼミ単位でのフィールドワークが奨励されていることもあって、学生と教員との距離はとても近い。教授会を開く学類の「大会議室」は、時に、ゼミ単位で開かれるパーティーや芋煮会(東北の方なら分かっていただけるだろう、秋にはこれが欠かせない!)、ゼミを超えた飲み会、餅つき大会や映画上映会などの会場になる。教授会が、前日の「キムチ鍋」の匂いのなかで開かれるなどという大学は、おそらく、うちの学部だけであろう。当時私も1年生と3,4年生のゼミを担当しており、まさにすべての事態が不気味な破局へと突き進もうとしているなか、いま彼らがどうしているのか、そのことが頭を離れなかった。
 しかし、このときは、福島に戻って自分が何をするのか、何ができるのかについて、なにかはっきりとしたイメージがあったわけではなかった。学生のことが気になるといっても、地震、津波に加え、今後さらなる事態の悪化が予想される原発の状況をまえに、学生のために自分に何ができるのか、想像もつかなかった。さしたるアイデアもないまま、ただただ、「早く帰らなければ…」、という切迫した思いだけで、福島に戻ったのであった。
 福島大学の学生に対して、自分は何ができたのか、そしてできなかったのか――震災からこれまでの5年間、微力ながら私が大学教員として取り組んできたことを、今回はご報告させていただこうと思う。

□ ドナルドの言葉

 原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活(1)(以下、「日常生活(1)」と記載)でご報告したように、私は、臨時教授会の翌日の15日に大学に出向いた直後、学類長に連れ去られるように学類の震災対策室のメンバーとなった。当日学類長室に集まった同僚とともに、さっそく学生の安否確認作業に取り掛かったが、この作業は震災対策室からの依頼に基づき、それぞれのゼミ担当教員(学類教員全員)が、担当するゼミの学生と個別に連絡を取る形で進められ、作業はおおむね順調に進んだ。4年間ゼミが必修で、かつ、ゼミ内でメーリングリストの作成が一般的だったため、3月17日までに95パーセント以上の学生の無事が確認された。過年度生でゼミ所属がない学生や、被災地域で連絡が取れない学生については、本人や家族への電話はもちろん、職場への連絡や各地の避難所の掲示板情報を確認するなどの方法を駆使し、3月20日には学生全員の安全が確認された。福島大学4学類中、行政政策学類がもっとも早く学生の安否確認を済ませることができたのは、日ごろから、ゼミ単位で、あるいはゼミを超えた形で開かれる、教員と学生の入り混じった「大会議室」の利用の成果でもあった。学生の安否確認は、「日常生活(1)」で詳細を記した「避難バス(帰宅支援バス)」とともに、震災直後の「緊急の」学生対応であった。
 学類生の無事が確認され、「避難(帰宅)」を希望する学生の県外への送り出しが終了したあと、私たち震災対策室が取り組んだのが、①今後、原発の状況がさらに悪化し、福島市内でも屋内退避や避難が必要になったときに備え、県内出身学生や県内に残る学生を迅速に避難させるための計画の検討、②学類と学生との意思疎通のツールとしてのブログの開設であった。
①については、屋内退避時(避難の準備)の部屋利用の計画づくりからはじまり、学生教職員の避難を受け入れてくれる他国立大学の洗い出し等を進めた。また、学類教員からは、福島大学のキャンパスを緊急避難的に会津地方や県外に移転する提案も出されるなど、学生・教職員の被ばくを避けるための方法が、さまざまな形で検討されていた。結局、大学が所在する福島市は政府の屋内退避措置や避難指示の対象地域とはならず、また当時の大学当局も、政府の方針とのズレが生じても独自の情勢分析と内部検討に基づいた行動をとるという姿勢を示さなかったため、教員個々人や学類の震災対策室でほぼ完成していた具体的な計画案は、大学レベルでの検討に付されなかった。しかし、県外の国立大学からも当時、福島大学に対して学生の避難を受け入れるといった申し出があったとの情報もあり、この時期における学生の被ばく防止の対策や避難計画をめぐる大学当局の対応は、その是非も含めて、今後さらなる情報公開と検討が進められる必要があろう。
 ブログの開設は、学類長である塩谷弘康教授の指示で行われた。3月25日に開設されたブログ、「ガンバロウ福大!行政の『結』」(以下、「行政ブログ」)は、震災対策室のメンバーを中心に、学類教員や学生、卒業生、学生の家族、他大学の学生などが幅広く寄稿し、大学の状況報告から在学生・卒業生の活躍、他大学からの応援など、極めて真剣な思索から、大学当局への皮肉と抗議、震災対策の日々のなかで起こる悲喜劇のふざけたの報告まで、多彩な記事に溢れている(ぜひ一度ご覧ください!→http://311gyosei.blog39.fc2.com/)。私は、ブログのなかでも最も多くの記事を書いた一人だろうが、ふざけた記事のなかに、学生に伝えたい大事なことをこっそり書き込む、というスタイルで、いつも楽しく、かつ真剣に記事を書いていた。
 3月27日に私は、地震であらゆるものが床に落下し、ひどい状況になっている研究室の報告をブログに書いた。「教員研究室のドナルド」と題するこの記事の最後には、研究室でひっくり返っていたところを私に救出されたドナルド・ダックが読者に向かってこんな話をしている。

 「みんな、自分が今やるべきだと思うことを、存分にやろう。ボランティアに行きたい人は行こう!仕事をしたい人は仕事に行こう!勉強したい人は勉強しよう!家族の安全を最優先に守りたいという人はそうしよう!ゆっくり休みたい人は休もう!友達に会いたい人は会いに行こう!」

 当時大学内では、震災後に福島でさまざまな業務をこなす教職員がいる一方で、家族とともに福島を離れ、自主的に避難生活を送る教職員もおり、出勤しない(できない)教職員に対する不満が学内で高まっていた。「職員としての当然の義務」としてではなく、「自分で決めたこと」として福島に戻ってきた私としては、今いる場所は異なろうとも、同じように、「自分で決めたこと」として県外に避難した同僚と同じ立場に立っているのであり、その意味で、「出勤は当然の義務」、との意見には強い違和感を持っていた。他学類では、その長が県外避難した学類教員に対してかなり強い調子で職場復帰を求めていたが、私は、行政政策学類内でもそのような声を耳にするようになっていたことを心配していた。私たちの学類では、教授会でこの問題を十分議論したうえ、塩谷学類長の判断もあり、「職場復帰」を教職員に迫るような指示、メールなどは一切出されなかった。福島に戻ってきた自分も、家族とともに避難した同僚も、どんな決断であっても、その決断をぎりぎりのところで尊重し、認めた私たちの学類の決断を、私は今でもとても誇りに思っている。多くの人が亡くなり、また原発事故と被ばくという前代未聞の状況のなかで、それに巻き込まれてしまった人たちが、「今自分が大事だと考えること」、「やりたいと心底思うこと」を、それがどのようなことであっても、自由に実現できるような環境をつくることを大事にしなければ、という思いで、ドナルドに語ってもらったのだった。
 当時の学生たちの行動もさまざまであった。沿岸地域から避難してきた方々を受け入れる避難所となった大学の体育館でさっそくボランティア活動を始める学生、外で何が起こっていようとも毎日大学に来て公務員試験の勉強を続ける学生、4月からの就職の準備を進める学生、友人を福島に残して自分だけ県外避難したことに罪悪感を持って教員にその思いを伝えてくる学生、研究対象であった飯舘村の知り合いを訪ねる学生、何かボランティアをしたいが実際にどういう行動をとればよいのかわからないと相談を寄せる学生…などなど、混乱のなか、学生たちも自分のやるべきこと、進むべき道を模索し始めていた。このころ、学生に対して自分に何ができるのか具体的に思いついたわけではないが、自分が何かをするとしたら「何のために」か、ということについては、少し見えてきたように感じた。

□学生による学長への要望書提出

(つづく)

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