ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

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ぴたは政治学者か? えー、ウソでしょ~!

 ぴたは、政治学を研究してきたはずなのですが…僕の先生や、大学院時代の友人なども、いったいぴたが福島で何をやっているのか、と思っているのではないかと想像してます。本人も、いったいぜんたいどうなっているのか、わけがわかりません(笑)。今日は、二つ前の記事の続きです。お時間があったら読んでみてください!だ

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原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活
(著者)福島大学行政政策学類 ぴた

(…続き→前の記事は、こちら

 その契機となったのが、「20ミリシーベルト」問題である。文部科学省が2011年4月19日に、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトに達するかどうかの目安を示して、被災地の学校再開の基準を定めた。この基準が示される前に、福島県内の小中学校の再開は決まっていたが、小中学校を後追いする形で、大学の新学期開始日程も決まる。子供を連れて県外に避難していた多くの家族が、学校の再開とともに福島に戻る決断をし、私たちも学生も、被ばくという得体のしれない危険を日々感じながらの日常が始まった。自分たちでなんとかしろ!といっていた中央政府は、ふたたび、私たちの生活や命の大事なところをコントロールするリーダーシップと権力を取り戻し始めたのである。政府の決定に従い、大学本部も新学期開始を決めた。確かに、「20ミリシーベルト」基準に対し、当初、福島ばかりではなく全国的にも大きな反発がひろがったが、そうした声は次第に萎み、その後は大きな反発も圧力も受けることなく、政府と大学本部は、ポスト原発事故後の社会運営の主導権を再び手にしていった。
 その後は、復活した「トップダウン」体制と、自分たちの命や健康のことは自分たちで決めたいという現場の「自治」意識のズレが次第に拡大し、それを社会全体が容認、黙認していく過程である。たとえば、2011年7月1日から発動された「電力使用制限令」。これは、電力危機を避けるため電気事業法27条に基づき政府が発動したもので、東京電力と東北電力の管内にある大規模な工場や商業施設、オフィスビルについて、最大電力を前年夏より15%削減するよう求める強制措置であった。被災地域にある公共施設の約30分野は強制措置の除外対象となっていたが、福島大学はこの除外施設扱いにはならなかった。大学は、制限令の対象になったことへの不服を弁明書という形で提出し(行政手続法にのっとった手続き)、「原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、放射性濃度が平常値よりも40倍ほど高い数値となっている。このような状況のもとで、学生の授業や教職員の業務を行うにあたり、窓の開閉等で室内温度の調節をはかるのは、砂埃等に交じった放射性物質が室内に入る恐れがあることを考慮すると厳しい」と訴えたが、認められなかった。その後大学では、「節電行動基本方針」なるものを作成し、「教育・研究等の活動に支障が生じない範囲で」との限定つきながら、「外気を利用し空調を停止する等の使用抑制」が勧められることとなる。「弁明書」と「基本方針」の間で、「窓の開閉」「外気の利用」についての評価が真逆になっていることに驚かされるが、大学本部は政府の方針のもとに逆らうことはできず、結局はそれを前提に「基本方針」が書かれることとなった。授業開始が遅れた分夏休みを削って暑い中授業を続けた福島大学の学生教職員は、被ばくの恐怖におびえながらも、「窓を開けるという重い決断(!)」を迫られた。そうした事実は報道されず、この指針に従った現場の学生教職員は、誰にも知られることなくひっそりと被ばくすることとなった。今や、自分たちで決められることはほとんどなくなってしまった、また、そうしたことをおかしいといって声を上げる人たちもいなくなってしまった、という事実を思い知らされる、悲しい出来事であった。
 震災直後の担当学生の安否確認作業、それに続く避難(帰宅支援)バスの企画と運営、学生の屋内退避・全面的避難計画の策定作業、さまざまな除染作業の試みなど、私や同僚たちは、福島大学の教員がやるべきことについて、やれることは、不十分ながらも、必死に取り組んできた。しかし、「やるべきこと」を決めるのは、私たち現場の人間ではなくなり、どこか遠くで決まったことが、いつの間にか現場にいる私たちに、「やるべきこと」として差し出されるようになってしまった。それは、自分たちでは「何もできない」、に等しいことでもあった。
 そんななか、確かに、「研究室に戻る」、という選択肢もあり得ただろうと思う。原発事故を目のあたりにし、それがいかに異常なことかを身をもって体験した一人として、原発のない社会、原発に依存しない国づくりに向けて何が必要なのかを研究することは、大切なことだと思う。日本の政治学研究者、ましてやドイツ現代政治を専門とする政治学研究者にとって、原発事故の起こった日本で脱原発が実現せず、逆に、なぜ、かの国ドイツで原発のない社会の未来像を国民が幅広く共有できるのか、という疑問を解くことは、重要な知的課題であることに疑いはない。私も、福島の政治学研究者、それもドイツ現代政治の専門家として、「脱原発」「原発のない社会を!」という理念を、脱原発の比較政治研究を通じて「形」にする、という選択肢もありえたかもしれない。
 しかし、原発のない社会を!という想いは当然持っていても、震災以降、福島に住む一人として経験したこと、また、自分たちよりももっと過酷にその現実に直面せざるを得なかった飯舘村や葛尾村など、避難指定地域を故郷とする人たちと関わるなかで経験し、学んだことを、「脱原発」や「原発のない社会を!」、という言葉では、まとめられない気がするのも事実である。国や組織のトップダウンによる運営が、結局は、トップに立つ者の都合のいい時、都合のいいテーマだけのリーダーシップであって、現場は、丸投げされるにしろ、逆に、コントロールされるにしろ、結局は顧みられることが少ないという事実への反発は、「脱原発」という言葉で表すことはできない。また、東京で開催された「福島原発事故による学校・機関への影響と対応を考える」という研究会で、福島からの参加者が切羽詰まった質問を投げかける一方で、東京からの参加者が放射線の物理に関する無邪気な質問を出すのを聞いた時の違和感も、「原発のない社会を!」という理想へと解消できそうにない。20ミリシーベルトという基準で福島に住み続けることを余儀なくされていながら、自分でできる数少ない被ばく対策でもあった「窓を閉める」という対応も、電力制限の名のもとに制限されてしまう現実や、多くの人にそうした事実があることをしられることなくひっそりと被ばくが強いられる現状に抗議するのに、「脱原発」という主張を掲げるのはおかしいだろう。仮設住宅に残らざるを得ない高齢者が、あまりに狭い仮設住宅で、昼間はこたつを出し、夜になると寝るためにこたつを片付けて布団を敷かなければならないという(理不尽な)現実を何とかしたいと思った時に出てくる言葉は、「原発のない社会を!」、ではない。要するに、「原発のない社会の実現」とは、事故が起こる前のスローガン、あるいは目標であって、「その後」である現在、放射線被害に日々苛まれる私たちの「想い」ではあっても、今の福島の現実とかかわりの薄いスローガン、「理想」なのである。原発事故後の私たちは、「原発のない社会」が実現できないまま、その原発が爆発して放射能が撒き散らされるという現実の中に生きている。「脱原発」は私たちにとっては、すでに遅すぎた目標、達成されることのなかった目標なのである。
 このことは、原発事故被災地である福島で、いわゆる「脱原発運動」が盛り上がらない理由でもある。週末に繰り返される福島駅近くの脱原発デモを、多くの福島市民が横目で見ながら通りすぎる(私もその一人だ…)光景は、見た目の派手さにもかかわらず、痛々しいものがある。「○○原発再稼働反対」。その思いは共有できたとしても、原発がすでに爆発してしまった福島にとっては、もう遅すぎる、という気持ちをどうしてもぬぐえないのである。
 しかしもしそうだとすると、福島で政治学研究と教育を仕事とする私は、何をしたらいいのだろうか?
 一方で、自分たちの健康や生活を大きく枠づけるイニシアティブは、政府に、そしてリーダーシップ型運営を強める大学本部に握られてしまった。震災と原発事故の混乱のなかから「日常」を取り戻し、かつての「改革」の復活とさらなる強化への動きを支える国民世論も強まっている。そんななか、被災地の現実を自分たちの手で少しでも良い方向へ、という気持ちはどうしても萎えてしまいがちである。他方で、自分の思い通りに進められるかもしれない政治学研究の世界で、脱原発の比較政治学といったテーマで、今自分がこの福島で研究を深めていくことが一番重要な課題であるようにも感じられない。
 だとすれば、自分は何をすべきで、何ができるのか。福島の現実から出発しながら、政治学の訓練を受けてきた人間として、福島大学の教員として、自分ができること、やるべきことは何なのか。「できることは実は何もない」、という「悪夢」は、いつも頭の片隅にある。この4年間は、悪夢を打ち消すための試行錯誤でもあった。そんななか、ある意味なりゆきで始めたのが、「かーちゃんの力・プロジェクト」であった。

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