ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

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お久しぶりです、ぴたです!

 ずいぶん長い間、ご無沙汰してしまいました。ぴたです。
 嶺風委員のみなさんの記事を読み、再びまた、ぴたを思い出しました。なつかしのぴた。
 これからまた、時々は記事を書かせてもらおうと思います。
 これまでブログへの記事掲載をさぼっていたわけですが、何もやっていなかったわけではありません。
 「こんなことしてました~」、のご紹介に、昨年度末に書いたちょっとした文章をここに掲載させていただきます。
 まじめに書いた文章です。ふざけたぴたは、また近々登場しますので…今しばらくお待ちください。
 この文章は、熊本大学法科大学院の紺屋博昭先生(労働法)と知り合ったことがきっかけで書いたもので、紺屋先生が主宰される「雇用構築学研究所」が定期的に刊行されている「ニューズレター」(49号, 2015年1月発行)に掲載していただきました。
 文字ばかりで読んでいると頭が痛く(悪くも)なる文章ですが、時間があるときにでも、読んでみてください!
 何回かに分けて掲載させていただきます!

*******
原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活
(著者)福島大学行政政策学類 ぴた

□ はじめに

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から4年が過ぎ去ろうとしている今、福島で生活する平凡な政治学研究者の日常生活に、どれほどの関心を持ってもらえるのか、甚だ心許ない。そのことは十分承知しているつもりだが、こうして短い文章を書く機会を与えていただいたことに感謝しつつ、福島で過ごす私の日常生活を記させていただくことにした。
 うどん(香川)県出身の私が福島に来ることになったのは2000年のこと。たまたま募集していた福島大学行政社会学部の「政治過程論」のポストに応募し、幸運(偶然)にも採用してもらった。ドイツなどのヨーロッパの現代政党政治を専門にしつつ、日本も比較政治の対象としうるような人材として採用されたのだと思う。そんなヨーロッパ現代政治専門の研究者が、福島で2011年の大震災と原発事故を直接経験したのだから、読者のみなさんならきっと、私が新しい研究課題、たとえば、「なぜドイツでは脱原発で社会的コンセンサスが得られたのか?それとは逆になぜ日本では…」、といったテーマを得て、その問いの解明に取り組んでいると期待されるかもしれない。しかしながら、震災から4年間、私はそうしたテーマでの論文を書くことが出来なかった。比較政治学を専門とする県外他大学の政治学研究者たちが、そうしたテーマで論文や著作を発表しているのを目にすると、内心、忸怩たる思いがないわけではない。
 震災が起きてから4年間ずっと(誇張なく本当に毎日)、私は、飯舘村や葛尾村といった、放射能汚染により全村避難を余儀なくされた阿武隈地域の女性農業者たちと始めたプロジェクト、「かーちゃんの力・プロジェクト」に携わってきた。震災以前の阿武隈地域は、農家女性による農産加工品づくりと直売場等での販売が大変活発な地域だった。農と食で地域を守ってきた農山村地域をまるで狙い撃ちするかのような放射能汚染によって、地域の女性たちは避難を余儀なくされ、自らの農地も食品加工場も、そして同じ加工食品づくりの仲間とのネットワークも失ってしまった。私たちのプロジェクトでは、そうした女性農業者たちが再び集まり、避難先である福島市で、放射能汚染や風評被害といった難しい条件のもとでも、再び農業と農産物加工で生活基盤と生きがいを取り戻す、という困難な試みを続けている。
 政治学の研究者であるにもかかわらず、震災と原発事故の被害のなか、比較政治学の重要課題に取り組まず、なぜ、農業と農産物加工に取り組むことになったのか、その経緯を自分なりに振り返ってみたいと思う。

□ 何もできない大学教員

 震災直後、私の所属する行政政策学類の教員有志は、春休み中に福島に残っていた学生たちをなんとか県外に避難させようと、バスの運行を企画し、実施した。私たちは当初、希望する学生を県外に送り出そうというこの取り組みを、その本来の目的のとおり「避難バス」と呼んでいた。しかし、この企画に大学当局が関与し始めると、「避難バス」という用語の利用が禁じられ、「帰宅支援バス」という名前に変更されてしまうことになる。大学本部によれば、バスの目的は、公共交通の不通によって帰宅できなくなった県外出身の学生たちの「帰宅支援」であるという。大学が所在する福島市は政府から避難を指示されている地域ではないのだから、「避難」という言葉を使うことはまかりならん、ということだった。
 避難バスは、3月16日と17日の2日間にわたり、公共交通が機能している那須塩原駅、会津若松経由新潟駅、米沢経由山形駅の3方向に向けて、学部教員の引率のもとで運行した。避難バスの運行のために私たちがおこなったのは、バスの予約だけではなかった。運行の前日には、乗車希望の学生に対する説明会を行い、運行当日も、乗車する全学生の最終目的地や実家の連絡先までを記載した名簿を作成し、全員からの無事到着の連絡をもらうまで、朝から真夜中まで作業に追われた。
 そんな折、こんなことがあった。「避難バス」という企画を独自に進める私たちの学部が、実際、どのようなことをしているのか知りたかったのだろう(個人的には、「偵察にきた!」と思ったが…)、研究担当の高橋副学長が、16日の避難バスの学生説明会の会場に突然姿を現した。説明会ののち、高橋副学長は、私たちが作業する部屋に押しかけ、原発事故の現状について話を始めた。機械工学が専門で、放射線にも詳しい(らしい)副学長の弁舌は滑らかだった。今、原発で何が起こっており、それをどう評価すべきか、学者らしく滔々と自説を展開した。私は、コンピューターに向かってやらなければならない作業をしながら、副学長の話を適当に聞き流していたが、そのうち大きな疑問が湧いてきた。私たちは、数分おきに起こる大きな余震に怯え、原発にいつまた突発的な事態が出現しないかと不安に駆られながらも、延々と作業に追われている。朝から夜遅くまでテレビはつけっぱなしになっていたが、私たちは作業に集中するあまり、実際には外で何が起こっているのかほとんど知ることもできないままだ。それなのに、副学長はどうしてここまで事態に詳しいのか?前代未聞の大震災と津波、そして原発事故という未曾有の事態のなか、学生や教職員を守るための仕事に追われながらも、テレビを見ながら最新情報を分析する余裕でもあるというのだろうか?
 私は無邪気にも、学長を中心とした大学本部が、学生はもちろん教職員とその家族を、この大災害と原発事故から守るという強い意志をもって職務に追われているはずだ、と思い込んでいた。避難バスの運行のためだけでもこれだけの作業があるのだから、きっと大学本部も、背負いきれないほどの業務量に押しつぶされているのだろう、と思っていた。地震直後に大学当局は、学生の安否確認に直ちに着手しないまま大学を閉鎖する措置をとったり、交通手段が確保できない教職員が何時間もかけて出勤せざるをえない状況を放置したりしていた。マスクやレインコートの配布など、教職員の放射能防護対策への努力も怠っていたし、この異常事態のなか、3月末の決算にむけた書類の提出依頼といった「通常業務」が平然と続けられるなど、大学運営は混乱していた。こうした大学本部の混乱も、あまりの業務量と忙しさゆえのものだと考えていた私は、高橋副学長が工学者として、また放射線に詳しい(らしい)専門家として、事態のなりゆきを見守る余裕を持っていたことに心底驚いた。学内で何が起こり、なにが求められているのかについての把握し、大変な思いをしながら仕事をする現場の教職員の激励に来たわけではなく、大変ななか忙しく作業を進める私たちに、原発で何が起こっているのかを説きにきたという事実に、愕然とした。しかし、未曾有の事態のなかで何をすべきか、それを提起し、議論のなかで大学運営の方向性を明確にするとともに、その実務を担う私たち教職員を支援するのが、本来の大学本部や役員の役割ではないか。結局のところ大学本部は、当初私が無邪気に思い込んでいたように、やるべきことに追われて混乱状況に陥っていたわけではなく、単に、これまで経験したことのない事態のなか何をしたら良いのか分からなかったのである。「情報収集」の名のもとテレビにかじりつき、「専門家」として原発の現状やその解説を弁舌滑らかに語る副学長への苛立ちは、私だけではなく、その場の同僚も感じていたようで、黙って聞いていた私たちも次第に耐え切れなくなり、「今、大学としてやるべきことは何か」、という議論からしだいに口論となり、結局副学長は、逃げ帰ってしまった。いや、私たちが追い返してしまったと言ったほうがいいかもしれない。
 またこんなこともあった。4月に入っても当然、大学は新学期を開始できない状況が続いていたが、いずれやってくる2011年度の新学期に向けて、大学として何をすべきか、難問は山積していた。もっとも重要な課題は、放射能汚染が広がるなか、学生や教職員の放射線防護対策をどう行うのか、ということだった。しかし同時に、出身国から退避勧告を受けている職員(外国人教員等)の扱いはどうすべきか、留学生への対応、他の大学に移りたい、避難のために休学したい、という学生にどう対応すべきか、等々、前代未聞の事態に追い込まれた私たちは、解決すべき課題の多さに押しつぶされそうになっていた。
 そんななか、偶然、「NPO法人学校経理研究会」と「国立大学マネジメント研究会」という組織が企画する、「福島原発事故による学校・機関への影響と対応を考える」という研究会が4月26日に東京で開かれ、文部科学省高等教育局から2名の専門職員が来場し、講演することを知った。彼らは、「外国人留学生・教員への対応」「災害時の労務対応」、「計画停電の影響―節電、授業時間の確保、ボランティアの扱い等」をテーマに話をするらしい。ならば、この研究会に出席して、文部科学省の方針を知り、アドバイスを受けながら、現場での具体的な課題への対応を考えてみよう。そんな思いで東京に向かった。その時の講演で2人の文部科学省の職員が何を語ったのかは一切覚えていないが、体育の授業の運営について質問した私に、そのうちの一人が答えた言葉は今でもハっきりと鮮明に覚えている。彼は、「なにかいいアイデアがあれば、ぜひ教えてほしい。私たちもできるだけそれを取り入れるようにする」、と言ったのだった。私たちはアドバイスをもらうつもりでいたが、逆にアドバイスを求められたのである。福島市内の私立学校からきた職員は、グラウンドの利用や窓の開け閉めについての文部科学省の考えを問い質したが、その職員から指針めいたアドバイスが示されることはなく、中身のない回答に呆然としていた姿が思い出される。
 私たちの質問にはほとんどなんの意味ある回答がなかった反面、東京にある私立大学の職員が、「鉛などの遮蔽物にあたった放射線はその後どうなるのか?」、という質問に対しては、工学博士からのきわめて明快な回答がなされた。東京と福島、彼らと私たちの関心や疑問の違いと、それへの回答のあまりの落差に打ちひしがれ、取り残された気持ちで、現場である福島に戻って行ったことを覚えている。結局私たちは、放射能汚染の現場で、大学として「やるべきこと」と「できること」、を自分たちで考えだすしかなかったのだ。
 しかし振り返ってみると、そもそも、2004年の大学の法人化以降、この時期までに進められてきたのは、学長や役員会への権限の集中、リーダーシップの強化、「上が決めて、下が従う」式のあらゆる「改革」ではなかったのか。大学運営ばかりではなく、民間企業でも経営の合理化やスピード感を持った経営の実現のために、組織改革が進められ、各社にCEOをおいて権限を集約させ、彼の指示に従って動くべき現場は、正社員から派遣やパートに置き換えられたのではなかったのか。さらにいえば、政治の世界においても、首相への権力集中が言われ、それを可能にするための小選挙区制の導入や二大政党制の実現が目指され、そうした一連の改革の「成果」として、各地でポピュリスト政治家が地方政治のトップに立ったり、政治のリーダーシップのもと一方的に組織の改廃や予算配分が決定される「仕分け」が行われてきたのではなかったのか。混沌とした事態のなかで、スピード感と明確な指針を示して新たな道を切り開くリーダーシップのための体制づくりと称して、組織トップがもつ権限の集中と強化が、政治経済から大学運営まで、あらゆる分野で進められてきたはずだ。
 しかし、困難な事態を前に起こったこと、すなわち、原発事故という究極の瞬間で私たちの前で繰り広げられたのは、それまで進められてきたはずの改革の理念とは正反対のものだった。すなわち、決断する権限と責任は、組織トップや負うべき人が負わず、あっという間に、「現場」に移譲されてしまった。混沌とした事態のなかで、今やるべきことを考え出し、それを実行する役割は、すべて現場に丸投げされ、押し付けられた。「自分たちで何とかしろ」――こんなものを「リーダーシップ」というはずがない。
 現場で起こったのは、政府にしろ大学本部にしろ、トップからのあっけないほど露骨な「丸投げ」だった。私自身はそもそも、大学の独立法人化や学長への権力集中、民間企業の経営改革と雇用改革、そして小選挙区制の導入を柱とする政治改革などに批判的な立場ではあった。しかし、原発事故による放射能汚染という未曾有の出来事のなか、ここまで露骨に「改革」の内実と本質を見せつけられるとは思わなかった。
 他方で、丸投げされたからこそ、自分たちでやるしかない、やってやろう、という意識が高まったことも事実である。学長や大学本部が、何をやるべきか分からない、思いつかないのなら、自分たちの学部独自で避難(帰宅支援)バスを企画・運営しよう(どの学部の学生でも乗車できるように組み立てよう)と考えたのは、そうした文脈のなかからである。避難(帰宅支援)バスの運行をやり遂げたあとも私たちは、避難地域がさらに拡大されたときに備えて、学生の屋外避難の際の運営体制や、全面的な避難計画の策定に乗り出していた。「自分たちで何とかしろ」といわれるのは、見方を変えれば、「自分たちのことは自分たちで決められる」、ということでもありうる。政府や大学本部がお手上げ状態のなかで、自分たちのことは自分たちで決め、実行することができるかもしれない、そんな立場に立っていたともいえなくもなかった。いわゆる「災害ユートピア」は、同じ境遇を共有する被災者の間に生まれる連帯感のことを指しているが、そこには、究極的な困難のなかで、「自分たちのことは自分たちで決められる」、といった「自治」の原初的な形態への期待も含まれているのかもしれない。
 しかしながら、私たちには、「自治」が認められたわけでは決してなかった。よく考えてみればすぐわかるように、「自分たちで決められる」範囲はそもそも大きくなかった。たとえば、可能な限り被ばく線量を少なくしようと、自分たちだけで様々な除染作業に(汚染水まみれで)取り組んだが、得られた成果はほとんどなかったし、大学を移転させて再開するといったアイデアも、実現可能性はほとんどなかったのである。避難(帰宅支援)バスは、震災直後という時期だからこそ、実現可能であったにすぎなかった。自分たちの生活や被ばく状況を決める「権限」は、その当初から、私たちが思うほど大きくはなかったのである。しかしながら、その小さすぎた「権限」も、次第に私たちの手から奪われ、そのうちすっかりと私たちから離れてしまうことになる。
 その契機となったのが、「20ミリシーベルト」問題である。
…(つづく)

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