ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

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明治学院大学国際平和研究所主催シンポジウムに参加して③

卒業式も終り、あっという間に新年度が迫ってきました。

おやが「卒業生を励ます会」の記事をアップしてくれたので、ひろやすも、ようやく懸案の宿題に取り掛かることにしました。長期連載(といってもたんに間隔が空いただけですが・・・)の明学国際シンポ報告の第3報です。本当は、セッション2とセッション3をまとめて載せるつもりだったのですが、またしても長くなってしまったので、今回は、セッション2について記事を書きます(重ねがさねスミマセン)。

2日目の午前のセッション2「原発災害を生きるための思想を創り出す」は、福島に限定せず、これまでの災害を生み出した社会を踏まえて、現在、そしてこれからの社会を生きていくナショナルな思想について討議しようというものです。

最初の報告者の菅井益郎さん(國學院大學経済学部・市民エネルギー研究所)の専門は、日本経済史、公害史。報告は、タイトル「足尾から福島へ―『デンキ開ケテ、世間暗夜トナレリ』にあるように、公害(鉱害)の原点である、足尾鉱毒事件から福島原発事故を見つめ直そうというものです。サブタイトルは、鉱業停止を主張し行政責任を徹底的に追及した、田中正造翁が亡くなる40日前に残した警句だそうです。日露戦争後、電気が普及する中、足尾銅山にはドイツ・シーメンスの水力発電が導入され、先進地だからこそ激しい鉱害が発生しました。鉱毒被害が出始めてから120年以上が経つのですが、驚いたことに、3.11震災で堆積場が決壊し、下流に大きな被害を及ぼす可能性があるのだそうです。事件はまだ終わっていなかったんですね。菅井さんは、谷中の人びとが北海道に移住したことを例に、福島でも避難と移住の権利を認めるべきであり、除染幻想は除染ビジネスを生み出すにすぎないと断じました。また、被災者の意見を聴かず、損害賠償(補償)を値切る企業と政府の姿は、足尾事件と同じ構図であり、福島を足尾や水俣の二の舞にしてはならない、東電と政府の責任逃れを許すなと、訴えました。

迫力満点の菅井さんに続いては、栗原彬さん(日本ボランティア学会代表)の「原発危機の政治学―福島と水俣をつなぐ」です。栗原さんの専門は政治社会学。『証言水俣病』など水俣関連の本を何冊も執筆されています。栗原さんは、穏やかな口調ながら、水俣病は「事件」というのに、なぜ福島は「事故」というのか、「福島原発事件」「福島原発公害」と呼ぶべきではないか、と鋭く切り込んでいきます。栗原さんによれば、水俣と福島との間には公害事件を貫く共通の論理構造「システムの政治」があり、それは、市場原理優先の国家のあり方にほかなりません。報告では、水俣と福島の二つの公害の根底にある日本の政治のあり方が、①地方と中央、②国策推進の絶対的権力性、③生産力ナショナリズムなど、9つの点から明らかにされました。そして、最後に、福島と水俣をつなぐものをいくつか挙げられましたが、とくに印象に残ったのは、国家のあり方を壊していくためには、私たち自身が、「課題責任」として、ハビネス(習慣・慣習)を変えていく必要があるということ、そして、公共性を「人権」として捉える「公共性の書き換え」が必要である、という点でした。

最後のパネリストは、マルク・アンベールさん(フランス・レンヌ大学、政治経済学)は、民間・公的組織、市民社会、個人によって導かれる社会変動をグローバリゼーションとの関連で研究しています。「フクシマ後に築く分かち合いの社会」では、まず、私たちが人間の福祉のために、「道具(イリイチの概念でハンマーから政府まで含む)」をどんどん大きくしていた結果、自然資源に害を及ぼし、大規模な自己破壊的なリスクを増大させてしまったのではないか、グローバリゼーションが進む中で格差拡大や貧困がもたらされており、経済成長ではなく人びとの繋がりを求める世界、「分かち合いの社会(convivial society, a society of sharing)」を構築する必要があるのではないか、と問題提起しました。アンベールさんは、3.11以降、日本社会においては希望の光が見えると言います。それば、個と個の関係の見直し(人の輪づくり)や、今までの垂直型連帯から水平型連帯へ、あるいは、近隣・町会といった局所的な連帯から世界レベルの連帯への変化であり、その中から、新しい絆の日本型モデルが生まれつつあるのではないかと論じました。そして、必ずしも「脱成長」ではない経済の減速化により、富の再配分を目的とした「分かち合いの社会」を目指すべきだと結論づけました。

コメンテーターの五十嵐暁郎さん(立教大学、日本政治論)からは、福島の問題をイデオロギーの問題として捉えることには共感を覚える、事故を起こした構造を分析し、将来の方向を指し示すことが必要だが、その際には、倫理をどう組み込むかが課題になる、また、絆という言葉で日本社会の変化を捉えることができるか、国民国家から地域社会までコミュニティのあり方を考えるべきではないか、というコメントがありました。

このコメントに対して、パネリストから発言がありましたが、「絆」という言葉は神話であり大嫌いだ、使うとあるように感じる、水俣の「もやい」のように日常感覚の方が重要ではないか、という栗原さんの発言は面白かったです。また、栗原さんは、自分自身もまたチッソによる「安楽な生活」を享受し生き物に対して加害者の立場であったという認識(「課題責任」)から水俣病の認定申請を取り下げた、緒方正人さんを引き合いに、被害者対加害者という二分法をいかに乗り越え、人間としてこの問題にどう向き合うかが重要であると指摘されていました。

その後、会場から出された、技術者のあり方(倫理)、原発の可否の決め方(国民投票という多数決でやってよいのか)、経済成長を求める人をどのように説得させるのか、などの質問をめぐるやり取りがなされました。その中では、菅井さんの「PPP(汚染者負担の原則)」を徹底させ会社を潰してでも責任を追及することが必要という発言、栗原さんの、安全性に関しては、引き返すときの基準は専門家ではなく「人間として考えるレベル」に置くべきであるという発言が印象に残りました。

ひろやすは、大学では「法社会学」の講義を担当していて、2011年度前期のテーマは「司法の法社会学」だったのですが、原発災害(事件)を受け、急きょ、内容を大幅に変更しました。未曾有の災害を前に抽象的に司法制度を論じても現実感に乏しいと感じたからです。そこで、「薬害エイズ事件訴訟」「水俣病事件訴訟」「原爆認定訴訟」の3つの事例を取り上げ、事実の概要、原告(被害者)が求めたもの、裁判の経緯、成果と課題などについて話をしました。

なぜこの3つなのかと言えば、これらの事件と福島原発災害との間には共通の構造があると感じたからです。災害直後、水俣病の患者さんや広島・長崎の被爆者の方々から、福島県民に対して多くのメッセージが届けられました。それは支援や激励とともに、水俣や広島・長崎の経験・教訓から学んでほしいというメッセージでした。「被害の実態を明らかにしないまま長年放置する」、「事実を隠ぺいして謝罪も賠償・補償もしない」、「厳しい認定制度を設けて被害者を切り捨てていく」、これらは、事件が起きるたびに何度も繰り返されてきたことです。いまだに現在進行形で事件を生きている被害者の眼には、何年後、年十年後の福島が自分のことのように思えたのでしょう。私たちは、水俣、広島・長崎などの被害者と連携しながら、「ノーモア・ミナマタ、ヒロシマ・ナガサキ」「ノーモア・フクシマ」を実現していかなければなりません。

私たちに求められていることは、セッションでも議論されたように、事件を惹き起したこの社会の「構造・システム」を明らかにしてその変革を進めること、それとともに、この社会を支えている私たちの生活そのものを見直していくことです。前者もそうですが、後者はより困難な道程だろうと思います。いまだに福島には東電や政府に対する憤りや怒りが渦巻いています。それは故郷を奪われたものとして当然のことであり、被害者・被災者として、法的責任、政治的責任を追及していくことになるでしょう。しかし、「被害者」という意識だけでは、私たちの今の生活や社会全体を変えることはできないのだと思います。自分自身の中の「加害性」を認識し、当事者としての「課題責任」を果たすことが問われているのです。

さて、いよいよ次回が最終回。セッション3には、ひろやすも登場します。お楽しみに。

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