ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

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「くらし」と「いのち」をつなぐには―菅野義人さん

昼の震災対策室からこんにちは、おやです。

最近自分で記事を書いていないなぁ…反省(汗)。
1月末から今週末にかけて、論文の〆切が3本もあって…って、言い訳ですが(笑)。
僕何倍も忙しい夜室長やぴたを見習わないといけませんね。

そんな風に反省していたところ、夜室長からブログ記事が届きました。
以前、総合科目「小規模自治体の実践から学ぶ地域づくり学」で、渡邊とみ子さんをゲストスピーカーにお招きした様子をご紹介しましたが、今回は、菅野義人さんをお招きした様子をご紹介します。

では、夜室長、よろしくお願いします!

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「小規模自治体の実践から学ぶ地域づくり学」では、1月24日、前週の渡邊とみ子さんに続いて、ゲストスピーカーをお招きしました。今回の講師は、菅野義人さん。菅野さんは、専業農家(水田2.6ヘクタール、草地8.5ヘクタール、繁殖和牛〔母牛20頭、子牛13頭〕)であり、40代の若さで村会議員になり議長も務めた村のリーダーの一人です。

菅野さんのお宅では、2007年に長男が村に戻り経営に参加していましたが、原発事故に伴い、牛をすべて処分せざるをえなくなりました。「牛をとるか、土をとるか」思い悩んだ挙句、長男夫婦が北海道で酪農を継続することを選んだのに対して、菅野さんは将来の子孫のために土(農地)をもとに戻したいと考え、福島に留まることを選びました。

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菅野さんのお話は、避難により失った「村」を思い起こすことから始まりました。菅野さんにとって、飯舘村は、第一に「若者を大事にした村」でした。県農業短大卒業後、二十歳で就農すると、当然のように、青年会に入りました。当時は、青年会に入らないと一人前として扱われない風潮がありましたが、青年会に入ってがんじがらめにされることには抵抗があったそうです。父が、近所や関係者に「息子が帰ってきたからよろしく」と電話をかけているのを聞いて、もっと自由が欲しいと思いましたが、青年会の活動を通じて得られることもたくさんありました。

青年会の活動の半分は酒飲みで、家族のこと、友人・異性のことなど、いろいろと語り合いました。もちろん、盆踊りの準備やレクリエーション、学校教育など、さまざまな活動も行いました。その一つに、「ふるさときゃらばん」(村おこしなどをテーマに地方公演を積極的に行っていた日本のミュージカル劇団)の誘致があります。青年会だけでは、誘致ができないため、商工会青年部を訪ねて「連携したい」と申し入れたところ、「赤字になったらどうするんだ」と訊かれ、「自分たちの牛を売ってでもやりたい」と答えたそうです。商工会青年部では、これは捨ててはおけないと考え協力してくれましたが、こうした経験から、「意思のあるところに人もお金も集まる」ことを学びました。

また、村でミュージカルを上演する際、一番の気がかりだったのは、クライマックスを迎える21時に就寝のサイレンがなること。役場の総務課にサイレンを止めて欲しいと申し入れましたが、あえなく拒否されてしまいました。そこで、ミュージカル上演当日、仲間二人と、懐中電灯をもって忍び込み、サイレンに段ボールを被せて布団でまいてしまいました。いったいどうなることかとドキドキしてその時を待っていましたが、21時になってもサイレンは鳴りませんでした。後日、課長がサイレンのモーターを切っておいてくれたことを知り、ルールを曲げずに配慮できる人になりたいと思ったそうです。

菅野さんは、和牛部会(生産部会)にも入り、22、23歳で役員に据えられました。牛の市場は、一部の農家がいい牛を育てているだけではダメで、全体がレベルアップしていかないと買ってもらえません。そこで、若者が学習会や広報を行いましたが、壮年層がその後押しをしてくれました。40歳代の人は前面には出ず、若者を飛びこませることによって大きく育て、また、その能力ややる気を見ていたのではないか。人をつくっていく、人を活かしていく仕組みが村にはあった、と菅野さんは言います。

そして、菅野さんにとって飯舘村は、「地域の自主性、主体性を基本にした村」でもあります。村を構成する20の行政区は、もともとは独立していた「ムラ(集落)」で、役員の選び方も物事の決め方も行事もそれぞれ違います。自主性の強い行政区が集まって飯舘村をつくっていたわけですが、飯舘村はその個性を活かした地域づくりを進めました。

第三次総合計画の「やまびこ」運動では、行政区に100万円を渡し、それぞれ工夫して使ってよいということになりました。「バラマキ」という見方もありますが、逆に、補助金だと村の計画に合うことしかできません。比曽地区では、100万円を何に使おうか、婦人部、若妻の会、青年会、芸能保存会などの各組織がアイディアを出し合いました。当然、すべては実現できないことから調整が必要になり、地区のことを皆で話し合いました。それが、自分たちで物事を決めることの大変さやその重要性を学ぶことにつながりました。

第四次総合計画の「地区別計画」では、バージョンアップして、10年間で一地区に1千万円(自己負担1割)が配分されました。ただし、無条件ではなく、計画は、地区別計画策定委員会(各地区から1名を選出)の審査を通らなければなりません。どうして他の地区から文句を言われなければいけないのかという意見もありましたが、本当にお金を活かして地域づくりをするにはどうすればよいのか、他の地区の取り組みを通じて学ぶことができました。比曽地区では、ミズバショウの増殖、空地の公園化、そして、地区の歴史編纂に取り組みました。自分たちで、地区の歴史を調べ、文章も書き写真も撮りました。そして、一戸ずつ家族のページを設けて家系図を入れ、子どもたちに伝えたい親の思いを書きこみました。菅野さんにとっては、家系図作成は、牛の血統図をつくるのと同じでお手のものだったそうです(笑)。

「地区別計画」は、それぞれの地区の「知恵比べ」であり「汗の流しあい」であり、単なるお金のバラマキでなくするための工夫がありました。そして、その経験は、村民や議会をも二分した合併問題や、農地・水・環境保全向上対策、中山間地域等直接支払いの運用などに受け継がれていきます。

第五次総合計画では、「までいライフ」がコンセプトでした。菅野さんは、村長は、「までい」を「『真手』のことで、ゆっくり丁寧に」と説明するが、それは他所行きの説明で、「慎ましい、我慢をしながらも幸せをみつけること」と考えいます。そして、菅野さんは、手元の袋から数枚の布を取り出しました。

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これは、明治生まれのお祖母さんが、着物や綿入れを雑巾に縫ったもの。これが本当の「までい」だと菅野さん。

第五次総合計画では、六次産業化や、村の外周部の地区で集まって課題を話し合う「周辺地区サミット」なども予定しており、原発事故さえなければ、これからの農村のあり方について、一歩も二歩も進めることができたのではないかと思うそうです。

しかし、原発事故は、村のあり方や菅野さん自身の生活を一変させてしまいました。

事故発生当初、高い放射線量の中、若い消防団員は、屋根の瓦直しをしたり、原町や浪江から避難してくる人たちの交通整理を行っていました。また、婦人会の方々は炊き出しや物資の供給を行い、知らないうちに被ばくしてしまいました。

今でも悔やまれるのは、若いお母さんから「家族に反対されているが、子どもを村外に連れて行きたいのだが・・・」と相談されたときに、「家の中で静かにしていれば」くらいしか言えなかったこと。今から思えば、1週間でも10日間でも、遠くに行けと言うべきだったのに、無知が多くの犠牲を生み出しことが悔やまれます。文部科学省のホームページでは、夜になると放射線量のデータが更新されましたが、村民にとっては危険かどうかの判断ができず、「暴力的」であると感じられました。

その後、飯舘村は、「くらし(避難をせずに村としてまとまる)」か「いのち(避難をして健康を守る)」かの間で揺れ、結果的には、自主避難が相次いだ後に、計画のない「計画的避難」指示が出され、混乱に巻き込まれていきます。

一方、菅野さん自身も、「くらし(牛)」か「いのち(土)」をとるかの決断を迫られました。44歳のときに議員になり、専業農家である菅野さんは、フィールドが村民に近い所にあり、悩みを共有することができること、村民に近い立場でものが言えることを、一番の誇りに感じていました。原発事故後も、避難先の二本松東和から通って牛の世話をしようとしましたが認められず、牛を飼おうとすれば、白河や蔵王まで行かなければなりません。ここを離れれば、農業の源となる飯舘の「土」はどうなるのか、土を治さなければ、牛もコメも野菜もつくれない。そう考え、菅野さんは、牛を手放し(村内230戸のうち継続ができたのは10戸にすぎない)、福島にとどまり、土をもとに戻すことを選びました。

しかし、いざ牛を手放し農地を荒らしてしまうと、バックボーンが断ち切られてしまい、胸を張れず下をむいて卑屈になっている自分がいると言います。また、10年~15年も一緒に暮らしてきた牛を手放し、空になった牛舎を見たときには、毎日毎日積み重ねてきたものがすべて否定されてしまった感じがして、1週間ほど力が抜けてしまい、誰とも話したくなかったそうです。

全村避難となったいま、村民がバラバラになったところでどうコミュニティを維持するかが大きな課題になっています。村では、仮設住宅に自治会をつくったり、飯坂温泉に「癒しの宿いいたて」を設置していますが、比曽地区では、月1回コミュニティ新聞を発行し、独自に線量計を購入して、毎日見守り隊が線量を計測・記録しています。

菅野さんは、村の復興には歴史的な観点が必要だと言います。230年前の天明の大飢饉によって、比曽地区では100戸あった家が3戸にまで減ってしまいました。しかし、相馬藩は百年をかけて、互助の推進、子育て支援、産業振興、文化の普及を行い、地域の復興を進めました。村が発信している「2年で戻るというメッセージ」は、国の尻を叩くにはよいが、それでは村民の不安は消えない。もう少し長いスパンで考えるべきではないか。また、国は、除染特別措置法で、「住民、自治体に協力しろ」と言っているが、住民の力を引き出しながら問題を解決していくこと、現場の知恵を活かせるような工夫が必要ではないか。

そう主張する菅野さんは、、受講生に対して、畑村陽太郎氏(工学者、『失敗学のすすめ』がベストセラー)は、専門家のタコつぼ現象が失敗や事故をもたらしていると分析しており、、専門的に学び深みをもっていることも大事だが、学際的に、多角的な視点をもって社会とかかわっていって欲しい、というメッセージをくれました。

飯舘村は、幾度も自然災害を乗り越えてきたのだから、今回の原発事故も乗り越えられるだろうし、乗り越えていかなければならない。必ず復興できるし、今までにない力を得ることができると思う。強い決意の言葉で、菅野さんの講義は終わりました。

原発災害後、飯舘村から避難している方々から、何度かお話をうかがう機会がありましたが、一人ひとりが、人生の岐路に立たされ、苦渋の選択・決断を迫られたのだということをあらためて感じました。そして、それとともに、なんとか、「くらし」と「いのち」をつなぐ方法はないものかと思いました。昨年11月13日に福島大学で開かれた「NHK復興カレッジin福島:『チェルノブイリからフクシマへ』の中で、鎌田實医師が、「命と健康と仕事と生活と絆。どれもみんな大事。大事なことを上手に自分の生き方に合わせながら自己決定していく」と語っていたことも思い出されました。

その答えは、すぐには見つかりそうにありませんが、いまは北海道で畜産を続けている長男・義樹さんの取り組みを紹介しておきましょう(http://kannofarm.exblog.jp/)。義樹さんは、飯舘村での放牧風景の写真をポストカードにして販売し、その収益金を比曽地区に桜を植える費用に当てる、「つなげるつながる さくらプロジェクト」を実施しています。

「今回の原発事故で、個人個人がどう暮らし方を考えていくのか、どう社会をリ・デザインしていくかということも同時に考えることが必要なのではないかと思っています。そうでなければ今、事故の影響で苦しんでいる人達の苦労が報われません。事故後、あちこちでお話しさせていただく中で、同じ意識を持たれた方とつながる大切さを学びました。そしてこのポストカードを通して、大切な方とエネルギーやこれからの事を価値共有していただけたらと考えました。…比曽地区には桜が見られる場所がなく、いつも『集会所に植えたいね』と話していました。私たちの息子や孫が桜を眺めながら安心して農業ができる日まで、思いをつなげていけたらと思います。」

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