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ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

被災者支援の可能性を探る―飯舘・川内村民との懇談から②

8日の午後には、川内村の方に会いに、県南の泉崎村まで行ってきました。先月、ナターシャ・グジーのコンサートを開いたとき、コンサートの実行委員会では川内村の新妻幸子さんに昼食のケータリングサービスをお願いしたことがありました。ひろやすも後で干し大根の煮物をいただきましたが、とても美味しかったです。ぴたは、新妻さんのような農家のお母さん方の技能や力を活かした支援ができないかと考えてコンタクトをとり、会いに行くことにしたようです。

東北自動車道の矢吹ICで降りて約15分のところに、川内村の二次避難所の一つ、温泉ホテル「泉崎カントリーヴィレッジ」があります。一時期は、100名ほどが避難していたそうですが、アパートや仮設住宅に入居する人が増えて、現在は15名ほどの村民が暮らしています。出迎えてくれたのは、村の商工会副会長・女性部長を務める新妻幸子さんと、ご主人で村議会議員の一浩さん、NPO法人きのこ里山の会代表の小塚勝昭さんの3人でした。実は、ひろやすは、以前に川内村での調査やヒアリングの際に皆さんにお世話になったことがあり、思わぬかたちでの再会となりました。

川内村のみなさん
<左から、一浩さん、幸子さん、小塚さん>

食堂に場所を移して、幸子さんお手製の「ごんぼっぱ(ヤマゴボウの葉)」がたくさん入った凍みもちをいただきながら、約2時間にわたってお話をうかがいました。


しみもちを頬張る
<凍みもちを頬張るぴた>

双葉郡川内村は人口約3,000人(飯舘村の半分以下)のあぶくま山地に位置する山村で、東は楢葉町と富岡町(第二原発)、北は大熊町(第一原発)と接しています。現在、東電第一原発から20キロ圏内が警戒区域(立入禁止)、20~30キロ圏内が緊急時避難準備区域に指定されています。

川内村では、3月16日に村長の決断により郡山のビックパレットに避難しましたが、小さな子どもを抱えた住民はいち早く知人を頼って全国各地に逃れたので、子どもたちは散り散りになってしまいました。また、100人以上いたIターン者(小塚さんもその一人)も、放射能には敏感で、原発事故後2~3日のうちに、新潟など県外に避難したとのことでした。その一方で、100人ほどの住民は村内に留まり、現在ではその数は200人ほどに増えています。

川内村

<ビックパレットにある川内村災害対策本部。トレードマークのカエルがデザインされている>

仮設住宅は、ビックパレット近くに約200戸、県の農業試験場跡地に約150戸を建設し、民間借上げアパートに入居した人もいるようですが、村の世帯数約1,000戸に対しては、まだ150戸ほどが不足しています。

新妻さんは、震災以前は、いわき市四ッ倉にあった「道の駅 よつくら港」で、川内高原そばなどを提供していたそうですが、津波で壊滅的な被害を被ったため、現在は緊急時避難準備区域にある自宅に冷凍保存している野菜などを使って調理をおこなっているそうです。

3人のお話の中でとくに印象に残ったことをいくつか記したいと思います。

まず、小塚さんは、現在、放射能についてさまざまな言説があるが、その受け取り方は個々人で異なる、逃げる人もいれば留まる人もいて、そのどちらが良いとか悪いとか言うことはできない、人間は総合的に判断して決めるのだからその意思を尊重すべきだ、とおっしゃっていました。「被ばく量の容認レベルを決めるのは国ではなく個人」だとする小出裕章先生のお話にも通じるものを感じました。そのためには、隠さずに真実を伝えること、偏らず分かりやすい情報を提供することが大切ですね。

また、仮設住宅について、もともと庭つきで畑をやっていた村民が市街地の仮設住宅に入るのは無理があるのではないか、もっと田舎の広い場所に建設することはできなかったのだろうか。土にへばりついて生きてきた人たちが土から離れると生きる力が失われてしまう、仮設に入居した人たちはだんだんと元気がなくなっていて、数年後に死んでしまわないかと心配だ、もっと生きる喜びを感じることができる暮らしが必要だ、という小塚さんの言葉は、数日前に飯舘村の仮設住宅を見てきたこともあって、心に残りました。

さらに、村づくりや村での生活についてです。川内村は、これといった産業もないため、ピーク時には700人、現在でも300人(人口の1割)が東電関係の会社に勤めており、村の経済の多くを富岡町や双葉町に依存してきたそうです。飯舘村のような独自の地域づくりをしてきたところは、普段から鍛えられているので復興に向けて住民に火がつくが、川内村にはそのような基盤がないので、復興ビジョンも行政主導で策定されてしまい、住民の主体的な動きがあまり見られない。でも、新妻さん夫妻も小塚さんも、村民自身何かやらなければならないと気づいており、これをきっかけにして、内外の智恵を集めながら、自立的な村づくりを進めるきっかけにしたい、原発災害から蘇った村にしていきたいと、前向きに考えていました。

しかし、復興に向けた村づくりには相当な困難が予想されます。昨日9日、政府は、原発に不測の事態が発生する恐れが低いことを理由に、緊急時避難準備区域を9月上旬にも一括して解除すると発表しました。でも、病院も商店もないのに生活ができるのだろうか、季節風によってむしろ夏場に放射線量が上がっている場所もある、除染などは行われておらず子どもたちを連れて帰りたくても帰れない、といった心配を村民は抱いています。

また、かりに帰れたとしてもどのような村にしていくのかその方向性が見えていません。近年さまざまな特産品を開発してきたのに、その努力は水の泡になってしまいました。川内村は87%が山林なのに、キノコや山菜はダメ、農業も山仕事もダメでは、できることがありません。「これからは食べ物ではなく、ドイツのロマンチック街道のように見せるものでやっていくしかない」(幸子さん)、「300ヘクタールの採草放牧地一面にヒマワリを植えたらどうか」(一浩さん)、「川内村のキノコが安全だと言っても消費者には買ってもらえない。生花や家具のように違うものに転換しないと勝負できない」(小塚さん)など、いろいろアイディアが出されましたが、こうしたアイディアを村民が出し合いながら、村や自分たちの今後について話し合うことはとても大切だと感じました。

今回、飯舘村と川内村の住民の方々のお話をうかがって、原発事故によって、家族、親子、夫婦が分断されバラバラになっている様子がヒシヒシと伝わってきました。また、今後どうしていってよいのか将来が見通せないことに対する虚無感や、子どもが戻れず村がなくなってしまうのではないかという危機感があることがよくわかりました。

ひろやすやぴたは、震災からあっという間に5ヶ月が経ってしまったという感覚だったのですが、住民の皆さんにとっては、まだ生活が落ち着かずグラグラと揺れている状況のようです。一刻も早い復興支援をしたいという思いがありましたが、少し落ち着いて、今後の生活について考えられるようになってからでも遅くはないのではと感じました。

私たちにどのような復興支援ができるかまだ具体的に見えていませんが、福島などに避難している住民や出身者の方が集まって地域の将来について語る場をつくったり、故郷に戻ってからの仕事につながったりするような支援のあり方を考えていきたいと思います。

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