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ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

「原発」と「憲法」

昼の震災対策室からこんにちは、しみず@ブログ庶務担当です。

今回は久々のリレー日記、中里見さんの登場です。

5月3日は憲法記念日で、各新聞の社説も、こぞって、今回の大震災と「憲法」の関係を取り上げています。

本ブログでも、少し時期は逸してしまいました(全てはブログ庶務担当の責任です…)が、本学類の憲法担当教員のお二人、中里見さんと金井さんに、「震災」と「憲法」というテーマで記事を執筆していただきました。


中里見さんは、「『原発』と『憲法』」というタイトルの記事を寄せてくださっています。中里見さんの見解を踏まえ、皆さん自身も、「原発」と「憲法」の関係について、一度じっくりと考えていただければと思います。

それでは、中里見さん、よろしくお願いします。


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「原発」と「憲法」

 3月11日に生じた震災は、最初から「原発震災」でした。それは、ただの震災ではありませんでした。しかし、残念ながらそのことを最初から認識できた国民は少なく、放射能汚染を最も多く受けることになった福島県民の多くも認識していませんでした。いや、現在でも十分に認識されているとは言えません(たとえば米国その他の国の政府が自国民に避難を求めた圏域に属する福島市内などで、乳幼児や児童生徒が普通の生活を継続しているのはどうしてでしょうか)。

 実は、そうした国民の原発に対する認識の不足こそ、「原発」と「憲法」の抜き差しならない関係を示していて余りあります。というのは、「憲法」が市民の権利と住民の自治を保障した法であることは周知のことですが、「原発」への国民の認識不足は、長年にわたる政府による情報操作と市民運動に対する抑圧──つまり市民的自由と住民自治の侵害──の「成果」にほかならないからです。ここでは、原発が市民的自由と自治を抑圧し、人の最も基本的な権利を侵害する──「憲法」と最も敵対的な関係にある──ことを1つ2つ例を挙げて示しましょう。今回の原発震災「以前」の話しですが、原発震災「以後」の今日においてそのことを書くのは、今日生じている無数の理不尽な事態(福島市で子どもが生活していることもその1つです)を理解する上でも重要な認識だと思われるからです。

 まず、脱原発を求める普通の市民の運動は、警察の監視下に置かれてきました。ここ福島県でもそうです。原発とは、事故を起こさなくても、日々「被曝者」を生み出しながら──言い換えるとだれかの命を削りながら──運転せざるをえないものですし、今回のような過酷事故が生じると巨大な被害を生み出さざるをえないものです。そうした原発の不可避的で本質的な危険性を、やむにやまれぬ思いで訴える人々に、パトカーによる尾行や行動の監視などの警察のマークがつくのです。

 もう1つの例。佐藤雄平福島県知事は、前知事が白紙撤回した危険なプルサーマル運転を福島第一原発で行なうことを許可しました。同様の決定をした他の県では県民説明会が開かれましたが、福島県では、県民から要請があったにもかかわらず一度も開かれませんでした。

 そこで、あるグループが、県民説明会を福島県でも開くことの是非について福島市民の考えを聞くシール投票(開催に賛成の欄または反対の欄のどちらか一方にシールをはる)を行なおうと考え、福島駅東口前広場の使用許可を福島市に申請しました。しかし福島市は「県政に異を唱える行事のためには使用を認められない」と不許可にしました。プルサーマル計画の反対を訴える行事ではなく、その是非を問う行事ですらなく、単に「県民説明会開催の開くことの是非」について市民の声を聞く行事が、「県政に異を唱える」として不許可にされたのです。

 そもそも、全国に17ヶ所54基もある原発はどれも「暴力」によって建設されてきました──札束、差別、虚言、むき出しの暴力などによって。その事実は、鎌田慧など優れたルポライターが著書で明らかにしてきました。それらの暴力を行使する主体は、政府であり、自治体であり、電力会社であり、時に会社に雇われた暴力団であり、利権を有する個人とその取り巻きでした。原発は、各地域の住民と権利と自治を文字どおりずたずたに破壊して推進されてきたのです。

 原発は、事故を起こさなくても不可避的に「被曝者」を生み出す、と先に書きました。原発による最初の被曝者は、国外のウラン鉱山における採掘労働者ですが、国内における最初の被曝者は、原発の保守点検作業などを行なう原発労働者です(電力会社の従業員ではなく、日雇い労働者を含む孫請け、ひ孫請け、そのまた……という末端労働者)。彼らは、一般市民の何十倍もの被曝を余儀なくされながら被曝労働を日々強いられています。

 さらに原発は、放射能をまったく外に漏らさないで運転しているのではなく、一定の濃度の放射能をつねに大気中および海中に排出しながら運転しています。ゆえに、原発周辺住民も、長年にわたる低濃度放射能に被曝しながら暮らすことを余儀なくされています。つまり原発は、一部の人々の生命と健康という最も基本的な人権を、事故がなくても侵害することを前提にした産業だといえるのです。

 原発のこうした本質的な非人道性こそが、原発の建設にあたって地元住民に種々の暴力が行使されてきた(行使されざるをえなかった)理由です。そのことの不当性を訴えるごく一部の人々の主張は、長年社会からおおむね無視され嘲笑され罵倒されてきました。憲法の保障する市民的自由と自治、基本的人権にとってこれほど敵対的な原発の問題について、これまで憲法学はほとんど無視してきました。

 「3・11」原発震災は、「原発」と「憲法」をめぐるこのような過去に深い反省を迫り、新しい認識と取り組みをすべての人々に促していると思います。

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