FC2ブログ

ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

「くらし」と「いのち」をつなぐには―菅野義人さん

昼の震災対策室からこんにちは、おやです。

最近自分で記事を書いていないなぁ…反省(汗)。
1月末から今週末にかけて、論文の〆切が3本もあって…って、言い訳ですが(笑)。
僕何倍も忙しい夜室長やぴたを見習わないといけませんね。

そんな風に反省していたところ、夜室長からブログ記事が届きました。
以前、総合科目「小規模自治体の実践から学ぶ地域づくり学」で、渡邊とみ子さんをゲストスピーカーにお招きした様子をご紹介しましたが、今回は、菅野義人さんをお招きした様子をご紹介します。

では、夜室長、よろしくお願いします!

*******
「小規模自治体の実践から学ぶ地域づくり学」では、1月24日、前週の渡邊とみ子さんに続いて、ゲストスピーカーをお招きしました。今回の講師は、菅野義人さん。菅野さんは、専業農家(水田2.6ヘクタール、草地8.5ヘクタール、繁殖和牛〔母牛20頭、子牛13頭〕)であり、40代の若さで村会議員になり議長も務めた村のリーダーの一人です。

菅野さんのお宅では、2007年に長男が村に戻り経営に参加していましたが、原発事故に伴い、牛をすべて処分せざるをえなくなりました。「牛をとるか、土をとるか」思い悩んだ挙句、長男夫婦が北海道で酪農を継続することを選んだのに対して、菅野さんは将来の子孫のために土(農地)をもとに戻したいと考え、福島に留まることを選びました。

kanno1.jpg

菅野さんのお話は、避難により失った「村」を思い起こすことから始まりました。菅野さんにとって、飯舘村は、第一に「若者を大事にした村」でした。県農業短大卒業後、二十歳で就農すると、当然のように、青年会に入りました。当時は、青年会に入らないと一人前として扱われない風潮がありましたが、青年会に入ってがんじがらめにされることには抵抗があったそうです。父が、近所や関係者に「息子が帰ってきたからよろしく」と電話をかけているのを聞いて、もっと自由が欲しいと思いましたが、青年会の活動を通じて得られることもたくさんありました。

青年会の活動の半分は酒飲みで、家族のこと、友人・異性のことなど、いろいろと語り合いました。もちろん、盆踊りの準備やレクリエーション、学校教育など、さまざまな活動も行いました。その一つに、「ふるさときゃらばん」(村おこしなどをテーマに地方公演を積極的に行っていた日本のミュージカル劇団)の誘致があります。青年会だけでは、誘致ができないため、商工会青年部を訪ねて「連携したい」と申し入れたところ、「赤字になったらどうするんだ」と訊かれ、「自分たちの牛を売ってでもやりたい」と答えたそうです。商工会青年部では、これは捨ててはおけないと考え協力してくれましたが、こうした経験から、「意思のあるところに人もお金も集まる」ことを学びました。

また、村でミュージカルを上演する際、一番の気がかりだったのは、クライマックスを迎える21時に就寝のサイレンがなること。役場の総務課にサイレンを止めて欲しいと申し入れましたが、あえなく拒否されてしまいました。そこで、ミュージカル上演当日、仲間二人と、懐中電灯をもって忍び込み、サイレンに段ボールを被せて布団でまいてしまいました。いったいどうなることかとドキドキしてその時を待っていましたが、21時になってもサイレンは鳴りませんでした。後日、課長がサイレンのモーターを切っておいてくれたことを知り、ルールを曲げずに配慮できる人になりたいと思ったそうです。

菅野さんは、和牛部会(生産部会)にも入り、22、23歳で役員に据えられました。牛の市場は、一部の農家がいい牛を育てているだけではダメで、全体がレベルアップしていかないと買ってもらえません。そこで、若者が学習会や広報を行いましたが、壮年層がその後押しをしてくれました。40歳代の人は前面には出ず、若者を飛びこませることによって大きく育て、また、その能力ややる気を見ていたのではないか。人をつくっていく、人を活かしていく仕組みが村にはあった、と菅野さんは言います。

そして、菅野さんにとって飯舘村は、「地域の自主性、主体性を基本にした村」でもあります。村を構成する20の行政区は、もともとは独立していた「ムラ(集落)」で、役員の選び方も物事の決め方も行事もそれぞれ違います。自主性の強い行政区が集まって飯舘村をつくっていたわけですが、飯舘村はその個性を活かした地域づくりを進めました。

第三次総合計画の「やまびこ」運動では、行政区に100万円を渡し、それぞれ工夫して使ってよいということになりました。「バラマキ」という見方もありますが、逆に、補助金だと村の計画に合うことしかできません。比曽地区では、100万円を何に使おうか、婦人部、若妻の会、青年会、芸能保存会などの各組織がアイディアを出し合いました。当然、すべては実現できないことから調整が必要になり、地区のことを皆で話し合いました。それが、自分たちで物事を決めることの大変さやその重要性を学ぶことにつながりました。

第四次総合計画の「地区別計画」では、バージョンアップして、10年間で一地区に1千万円(自己負担1割)が配分されました。ただし、無条件ではなく、計画は、地区別計画策定委員会(各地区から1名を選出)の審査を通らなければなりません。どうして他の地区から文句を言われなければいけないのかという意見もありましたが、本当にお金を活かして地域づくりをするにはどうすればよいのか、他の地区の取り組みを通じて学ぶことができました。比曽地区では、ミズバショウの増殖、空地の公園化、そして、地区の歴史編纂に取り組みました。自分たちで、地区の歴史を調べ、文章も書き写真も撮りました。そして、一戸ずつ家族のページを設けて家系図を入れ、子どもたちに伝えたい親の思いを書きこみました。菅野さんにとっては、家系図作成は、牛の血統図をつくるのと同じでお手のものだったそうです(笑)。

「地区別計画」は、それぞれの地区の「知恵比べ」であり「汗の流しあい」であり、単なるお金のバラマキでなくするための工夫がありました。そして、その経験は、村民や議会をも二分した合併問題や、農地・水・環境保全向上対策、中山間地域等直接支払いの運用などに受け継がれていきます。

第五次総合計画では、「までいライフ」がコンセプトでした。菅野さんは、村長は、「までい」を「『真手』のことで、ゆっくり丁寧に」と説明するが、それは他所行きの説明で、「慎ましい、我慢をしながらも幸せをみつけること」と考えいます。そして、菅野さんは、手元の袋から数枚の布を取り出しました。

kanno2.jpg

これは、明治生まれのお祖母さんが、着物や綿入れを雑巾に縫ったもの。これが本当の「までい」だと菅野さん。

第五次総合計画では、六次産業化や、村の外周部の地区で集まって課題を話し合う「周辺地区サミット」なども予定しており、原発事故さえなければ、これからの農村のあり方について、一歩も二歩も進めることができたのではないかと思うそうです。

しかし、原発事故は、村のあり方や菅野さん自身の生活を一変させてしまいました。

事故発生当初、高い放射線量の中、若い消防団員は、屋根の瓦直しをしたり、原町や浪江から避難してくる人たちの交通整理を行っていました。また、婦人会の方々は炊き出しや物資の供給を行い、知らないうちに被ばくしてしまいました。

今でも悔やまれるのは、若いお母さんから「家族に反対されているが、子どもを村外に連れて行きたいのだが・・・」と相談されたときに、「家の中で静かにしていれば」くらいしか言えなかったこと。今から思えば、1週間でも10日間でも、遠くに行けと言うべきだったのに、無知が多くの犠牲を生み出しことが悔やまれます。文部科学省のホームページでは、夜になると放射線量のデータが更新されましたが、村民にとっては危険かどうかの判断ができず、「暴力的」であると感じられました。

その後、飯舘村は、「くらし(避難をせずに村としてまとまる)」か「いのち(避難をして健康を守る)」かの間で揺れ、結果的には、自主避難が相次いだ後に、計画のない「計画的避難」指示が出され、混乱に巻き込まれていきます。

一方、菅野さん自身も、「くらし(牛)」か「いのち(土)」をとるかの決断を迫られました。44歳のときに議員になり、専業農家である菅野さんは、フィールドが村民に近い所にあり、悩みを共有することができること、村民に近い立場でものが言えることを、一番の誇りに感じていました。原発事故後も、避難先の二本松東和から通って牛の世話をしようとしましたが認められず、牛を飼おうとすれば、白河や蔵王まで行かなければなりません。ここを離れれば、農業の源となる飯舘の「土」はどうなるのか、土を治さなければ、牛もコメも野菜もつくれない。そう考え、菅野さんは、牛を手放し(村内230戸のうち継続ができたのは10戸にすぎない)、福島にとどまり、土をもとに戻すことを選びました。

しかし、いざ牛を手放し農地を荒らしてしまうと、バックボーンが断ち切られてしまい、胸を張れず下をむいて卑屈になっている自分がいると言います。また、10年~15年も一緒に暮らしてきた牛を手放し、空になった牛舎を見たときには、毎日毎日積み重ねてきたものがすべて否定されてしまった感じがして、1週間ほど力が抜けてしまい、誰とも話したくなかったそうです。

全村避難となったいま、村民がバラバラになったところでどうコミュニティを維持するかが大きな課題になっています。村では、仮設住宅に自治会をつくったり、飯坂温泉に「癒しの宿いいたて」を設置していますが、比曽地区では、月1回コミュニティ新聞を発行し、独自に線量計を購入して、毎日見守り隊が線量を計測・記録しています。

菅野さんは、村の復興には歴史的な観点が必要だと言います。230年前の天明の大飢饉によって、比曽地区では100戸あった家が3戸にまで減ってしまいました。しかし、相馬藩は百年をかけて、互助の推進、子育て支援、産業振興、文化の普及を行い、地域の復興を進めました。村が発信している「2年で戻るというメッセージ」は、国の尻を叩くにはよいが、それでは村民の不安は消えない。もう少し長いスパンで考えるべきではないか。また、国は、除染特別措置法で、「住民、自治体に協力しろ」と言っているが、住民の力を引き出しながら問題を解決していくこと、現場の知恵を活かせるような工夫が必要ではないか。

そう主張する菅野さんは、、受講生に対して、畑村陽太郎氏(工学者、『失敗学のすすめ』がベストセラー)は、専門家のタコつぼ現象が失敗や事故をもたらしていると分析しており、、専門的に学び深みをもっていることも大事だが、学際的に、多角的な視点をもって社会とかかわっていって欲しい、というメッセージをくれました。

飯舘村は、幾度も自然災害を乗り越えてきたのだから、今回の原発事故も乗り越えられるだろうし、乗り越えていかなければならない。必ず復興できるし、今までにない力を得ることができると思う。強い決意の言葉で、菅野さんの講義は終わりました。

原発災害後、飯舘村から避難している方々から、何度かお話をうかがう機会がありましたが、一人ひとりが、人生の岐路に立たされ、苦渋の選択・決断を迫られたのだということをあらためて感じました。そして、それとともに、なんとか、「くらし」と「いのち」をつなぐ方法はないものかと思いました。昨年11月13日に福島大学で開かれた「NHK復興カレッジin福島:『チェルノブイリからフクシマへ』の中で、鎌田實医師が、「命と健康と仕事と生活と絆。どれもみんな大事。大事なことを上手に自分の生き方に合わせながら自己決定していく」と語っていたことも思い出されました。

その答えは、すぐには見つかりそうにありませんが、いまは北海道で畜産を続けている長男・義樹さんの取り組みを紹介しておきましょう(http://kannofarm.exblog.jp/)。義樹さんは、飯舘村での放牧風景の写真をポストカードにして販売し、その収益金を比曽地区に桜を植える費用に当てる、「つなげるつながる さくらプロジェクト」を実施しています。

「今回の原発事故で、個人個人がどう暮らし方を考えていくのか、どう社会をリ・デザインしていくかということも同時に考えることが必要なのではないかと思っています。そうでなければ今、事故の影響で苦しんでいる人達の苦労が報われません。事故後、あちこちでお話しさせていただく中で、同じ意識を持たれた方とつながる大切さを学びました。そしてこのポストカードを通して、大切な方とエネルギーやこれからの事を価値共有していただけたらと考えました。…比曽地区には桜が見られる場所がなく、いつも『集会所に植えたいね』と話していました。私たちの息子や孫が桜を眺めながら安心して農業ができる日まで、思いをつなげていけたらと思います。」
スポンサーサイト



かーちゃんの力・プロジェクト、第2弾!

「かーちゃんの力・プロジェクト」第2弾は、四日市市×あぶくま地域=「福幸焼き」

夜の震災対策室から、ひろやすです。
お待たせしました。「かーちゃんの力・プロジェクト」第2弾が決まりました!
その名も、「復興」ならぬ、福島を幸福にする「福幸」プロジェクト。
オヤジギャグだなんて言わないでくださいね。

先日、コーディネーターの渡邊とみ子さんが、三重県四日市市で研修を受けてきましたが、その受入先となったのが、NPOコミレスネット「こらぼ屋」の海山裕之さん。海山さんは、2001年に、お店に登録したプロではない主婦や学生といった人たちが、日替りでランチやディナーを提供するレストランの運営システム「ワンデイシェフ・システム」を始め、その普及を図っています。その目指すところは、「自己実現の場の提供」と「コミュニティの再生」。詳しくは、こらぼ屋さんのHP(→コチラ)をご覧ください!

生きがいを失った、かーちゃんたちが日替わりで食事をつくり、避難している方々が集える場になればいいのに・・・そんな思いから、ぴたとひろやすは、昨年9月、海山さんを訪ねる予定だったのですが、日頃の行いが悪いせいか(どっちのせい?)、台風15号の直撃を受けてあえなく断念(涙)。代わりに渡邊さんに行ってもらうことになったのでした。

渡邊さんは大歓迎を受け、こらぼ屋の皆さんは、かーちゃんの力・プロジェクトへの支援を約束。ワンデイシェフ・システムの導入はすぐには難しいので、こらぼ屋の「結縁(ゆえん)屋台」が販売している「ねぎ焼き」を仮設住宅でやってみたらどうかという提案をいただきました。この「ねぎ焼き」、地元の小麦あやひかりの生地に、楠町の九条ねぎをたっぷり入れて焼き、四日市市の天然2年仕込みの本醸造醤油のタレを塗ったというこだわりの逸品。海山さんが、原材料から鉄板まで持参して実際に調理をしてくれるというのですから、なんともありがたい話です。

大阪発祥のねぎ焼きが、東北福島でどう受け入れられるのか、定着して新たな食文化となるのか興味がわきますが、支援を受けるだけでは面白くありません。それならばと、かーちゃんたちは、鉄板で、あぶくま地域特産の凍み餅を焼くことを思いつきました。ひろやすは、油で揚げて砂糖醤油を絡めた食べ方しか知らなかったのですが、ほかにも蒸したり焼いたりいろいろな食べ方があるのだそうです。どんな凍み餅が出てくるのか、いまから楽しみです。ひょっとしたら、ねぎ焼きとのコラボもできたりして!

「福幸焼き(ねぎ焼き×凍み餅)」のイベントは、以下の予定で実施されます。

・3月4日(日) 14時~15時30分  二本松市安達運動場仮設住宅

・3月5日(月) 14時~15時30分  三春町中里応急仮設住宅

かーちゃんの力・プロジェクトから、もうひとつお知らせ。
プロジェクトを紹介するリーフレットが完成しました↓

katyannochikara1.jpg
<リーフレット1枚目>
katyannochikara2.jpg
<2枚目>
katyannochikara3.jpg
<3枚目>
katyannochikara4.jpg
<4枚目>

なかなかカラフルで素敵でしょう!
かーちゃんたちの笑顔が素晴らしいし、松野さんと渡邊さんの写真も対照的でいいですね(笑)

かーちゃんの力・プロジェクトでは、サポーター会員の募集も始めました。こちらも、どうぞよろしくお願いいたします。

地域の自立は、女性の自立から-渡邊とみ子さん

朝の震災対策室からおはようございます、おやです。

今日は、久しぶりに「ひろやすの部屋」をお届けしようと思います。
では、夜室長、おねがいしまーす♪

*******

以前このブログでお伝えしたように、飯舘プロジェクトでは、昨年、『小さな自治体の大きな挑戦-飯舘村における地域づくり』を出版し、この本をテキストに使いながら、学際科目「小規模自治体の実践から学ぶ地域づくり学」の授業を進めています。飯舘プロジェクトにかかわった教員が講義を担当してきましたが、1月17日と24日は、村民の方から直接、地域づくりの実践について語っていただくことになりました。

17日の講師は、「かーちゃんの力・プロジェクト」でもコーディネーターとして活躍されている、渡邊とみ子さん(前田・八和木地区)。ご自身もブログをやっているので、ご存知の方も多いかもしれませんね。ブログは⇒http://blogs.yahoo.co.jp/ madeikouboubisairento
前の晩に三重県四日市市での研修から戻ってきたにもかかわらず、疲れも見せずにさっそうと登壇した渡邊さん、最初は自己紹介から。渡邊さんは松川町水原のご出身。大学のすぐ近くですね。縁あって飯舘村に嫁ぎましたが、最初から今のように、地域づくりに積極的に係わり、発言・行動していたりしていたわけではなかったようです。

8E#656;^82P81@82#386;#1870;q82B382F1

転機となったのは、1993年、村の「第4次総合振興計画」の地区別計画策定委員となったこと。当時は、女性が表舞台に出ることは少なく、一家の男性(家長)が決めたことに従うだけだったけど、地区で女性のリーダー育成に取り組んだことによって、初めて、自分の意思を伝えることができる、地域の女性が輝ける場をもつことができたそうです。
その後、地区の有志と自主学習グループ「夢見る老止(おとめ)会」を結成して、一人一役をこなし、ハーブ教室や工芸などを学んでいきました。その結果、村のクオリティーライフの顕彰〔クオリティライフは、第4次総合振興計画のキャッチフレーズで、田園生活の質を向上させるために、「すてきな田舎人」の発掘・表彰が行われました〕を受け、「イータテベイク」の生みの親である菅野元一先生(相馬農業高校)とも出会うことができました。

2000年度から、村は村民企画会議と庁内研究会を発足させ、合併問題の検討を始めましたが、渡邊さんは村民企画会議の委員として、市町村合併について考えることになります。政治のことはよくわからないけれど、「自分の地域がどうなるのだろう」という普通の主婦の感覚で会議に臨んだそうです。松野さんが仕掛け人になった、「合併の是非をめぐるディベート」では、意に反して合併賛成の立論をしましたが、そのことによって、このまま高齢化が進んだら集落がなくなるかもしれない、という現実を知ることができました。

6市町村で構成する合併任意協議会(2003年)、4市町村で構成する法定協議会(2004年)にも代表委員として参加しましたが、飯舘村との落差を痛感したそうです。「今までの飯舘村での地域づくりと合併特例債を利用した箱モノづくりとでは相容れない」、「合併は結婚と同じであり、自分の人生を決めること、そう簡単に離婚はできない」と感じた渡邊さんは、飯舘村が合併せずに残ってよかったとおっしゃっていました。

8E#656;^82Q81@8EF68B#405;978Ci


「までいライフ」を理念とする「第5次総合振興計画」の策定時には、農村計画部会の委員となり、村職員とともに年間20数回の会議を重ねましたが、渡邊さんは、その中で「合併せずに自立を選んだ村のために、自分は何ができるか?」ということを考えました。2005年、遊休農地を利用して、飯舘オリジナル品種である「イータテベイク」と「いいたて雪っ娘」を生産・販売するために、「イータテベイクじゃがいも研究会」を設立。会合に遅れていったばかりに会長にさせられてしまったのだとか。本当かな?

そして、今度は、商品開発と加工・販売に取り組みたいと考え、起業について学んだうえで、2007年、「までい工房 美彩恋人(びさいれんと)」を、立ち上げました。実は、この名称、メンバーの名前の頭文字を織り込んでいるとともに、男社会からのパッシングを受け続けてきた渡邊さんが「お黙り(be silent)」という意味を込めているんだそうです。美しいだけではなかったんですね!

「人」という文字は支えあっているように見えるけれど、上のつっかえ棒(男性)が取れると、女性はぐんぐん伸びていくんですよ。渡邊さんの話はユーモアたっぷりで、ちょっと男には耳が痛い。でも、ご主人やご家族にはすごく感謝されていました。念のため。

8E#656;^82R81@90l82#386;A282A48E9A


こうして、「じゃがいも」と「かぼちゃ」の生産・加工・販売を手がけることになったのですが、とくに「種いも」の生産には並々ならぬ苦労があったそうです。

調べてみると・・・じゃがいもは、栄養体で増えるために増殖率が低く、しかもウイルス病にかかると収量、品質ともに大きく低下するという難点があります。そのため、1947年には国営の馬鈴薯原原種農場(現在は独立行政法人種苗管理センター)を設置して、原原種の生産・供給を開始しました。また、植物防疫法に基づいて植付前の元だね(種いもの親)、栽培中の植物体、生産物(種いもそのもの)の3段階で、植物防疫官が厳密な検査を行っていて、この検査に合格しなければ種いもとしては販売できないのだそうです。

ようやく昨年から種いもの生産が認可となった矢先に、今回の原発災害に遭遇しました。福島市内のイベントに参加していた渡邊さんは、慌てて村の自宅に戻ったところ、電気は止まり工房は散乱していたものの、商品は無事で、自分が生かされていたことを実感し、いいたて雪ん娘のムシパンをつくって村に届けました。

しかし、その後、原発事故によって被ばくしたことを知り、長野県白馬村に自主避難したのですが、やはり気になるのは種いものこと。これまでやってきたことが無駄になってはと、村にとって帰り松川町の実家に種いもを移しました。そして、なんとか生産を続けていきたいと考え、福島市の避難先に55aの田んぼを借りて、それを畑にしたそうです。飯舘村のフカフカした土とはちがって、高ウネやマルチもつくれないほどのゴロゴロとした土。でも、そんな中でも、芽が出た時は本当にうれしかったそうです。
地域の方への御礼の意味を込めて、10月には収穫祭を開きました。そして、世界一厳しいウクライナ基準よりもさらに厳しい放射能基準値20?/?(現在の国の暫定基準値は500?)という、安全・安心の基準を決めて、出荷することにしたそうです。それにしても、渡邊さん、逆境の中でもすごい決断力と行動力ですね。

渡邊さんは、最後に、「かーちゃんの力・プロジェクト」のコーディネーターとしての思いを語ってくれました。

自分と同じく、今までやってきたことを失って悔しい思いをしている「かーちゃん」たちはたくさんいる。自分たちでつくったものを販売することを生きがいにしてきたけれど、何もできない、どうしよう?という思いをもっている。
でも、仮設住宅で与えられるだけの生活はいやだ、今までやってきた生活をもう一度取り戻してみたい。そんなかーちゃんたちと出会って、精神的にギリギリの状況で餅プロジェクトに取り組んでみたら、新潟県南魚沼市石打地区からのもち米の提供など、いろいろなところから応援隊がでてきた。人は一人では生きていけない。

考えてみれば、自分はすべてを失ったわけではなく、加工施設が残っているし、あるものを利用するところから始めていけばいい。原発災害は、福島や飯舘の名前を勝手に宣伝してくれたのだから、ピンチをチャンスに変えて、消費者が安心して買ってくれるようにきちんと測って、かーちゃんの力でデータを示しながらやっていきたい。

「凧は風が強くなければ高く上がらない。目標も同じで多少の風当たりが強いのは自分のため」という渡邊さん。どこから見ても、「普通の主婦」ではなく、「スーパーかーちゃん」です。前向きで、明るくて、強い女性としか思えませんが、実は、不安な気持ちでいっぱいだったんですね。今年の年賀状には、次のように書きました。

暗闇の中から僅かの光を探してきました
ずっと、道なき道を歩いてきました
つらくて、悔しくて、沢山泣きました
あきらめないで小さな一歩を踏み出しました
そしたらね
いつの間にか大きな和が生まれたの
だから、頑張っていくことにしたの

渡邊さんのお話の後には、教員から一言ずつコメントがありました。

西崎さん:「今まで飯舘村の地域づくりについて話してきましたが、どうしても総論になりがちでした。今日の渡邊さんのお話からは、飯舘村の地域づくりを支えてきた個人個人の力の大きさが伝わったのではないでしょうか。」

岩崎さん:「飯舘村を含めた阿武隈地域では、それぞれの女性起業グループは頑張っているのに、自己完結してしまって横のつながりが弱かったように思います。でも、399号線沿いのネットワークをつくる活動があったからこそ、かーちゃんの力・プロジェクトのつながりも生まれたのだと思います。」

松野さん:「僕自身は、必ずしも専門の行政学の立場で飯舘村と付き合ってきたわけではありません。でも、村の現実や地域からたくさんことを学ばせてもらっています。皆さんには、なぜ行政の教員がこれほど飯舘村に惹きつけられているのか疑問に思って欲しい。そして、メディアを通じてではなく、人と接して、その地域で人がどう生きているかを学んでほしい。」

ひろやすもコメントを求められたのですが、コーディネーターの五十嵐さんに無茶振りしてしまいました。ごめんなさい! でも、五十嵐さんから受講生に対しては、「かーちゃんの力・プロジェクトも含めて、いま自分に何ができるかを考えてほしい!」というエールが送られました。よかったです。

当日(阪神・淡路大震災の日からちょうど17年目)は、神戸芸術工科大学4年生の方も、「かーちゃんの力・プロジェクト」の応援のために駆けつけてくれました。かーちゃんたちが頑張っている姿は人を勇気づけ、その笑顔は人を元気づけるんですね。

最後に、受講生の感想を一つ紹介しましょう。

「とみ子さんの講義を聞いて、人間の強さ、女性の強さを感じました。私自身福島で生まれて、今も大学に通っていて、本当につらく、どうしていいのか分からなくなる時があります。私よりずっとずっと大変な状況にあるふくしまのかーちゃん達の力を感じ、こんな時だからこそ、頑張って、ピンチをチャンスに変えなければと思いました。
今までの講義で飯舘村の協働のまちづくりについて学んできたが、実際に村民の方のお話を聞いたのは初めてでした。ディベート、合併委員への参加、起業など普通の主婦ではできないだろうという考えではなく、普通の主婦にしか思いつかないこと、できることを自ら楽しみながらやり、成長できたということを聞き、そして今もそこでの学びや、そこで生まれたつながりが残っていることを感じ、村の状況は良いとはいえないけれど、今までの飯舘の歩みはムダじゃなかったのだと思いました。
私も、とみ子さんのような強く美しい福島のかーちゃんになれるように生きていきたいと思います。」

「気持ち」を「形」にするには…愛媛・松山での復興支援②

 昼の震災対策室から大黒です。こんにちは。
 ずいぶん前の記事になってしまいましたが、愛媛・松山での復興支援活動についてお話いただいた楠橋さんへのインタビューの続編(①については、コチラ)をアップします。
 生まれ故郷愛媛県で、地元の大学生との活動を通じて感じたことを語ってくれています。
 「気持ち」を「形」にする難しさ、「何かやりたい」という想いを具体化する際に感じるかもどかしさが良く伝わってきます。被災地にいる学生さんが、今、まさに直面している課題かもしれません。
 最後に、インタビューを終えたひろやすの感想も掲載しています。

*****
(ひろやす)活動をやってみて、「学生ならでは」と思ったところはありますか?

(楠橋さん)学生って、専門とすること(~ができます!)ということがないかもしれないんですけど、その分可能性があるというのが強みかもしれません。いろんな活動ができる、ということもあるんじゃないでしょうか。学生同士のつながりを生かして、広くいろんなことにチャレンジできるというのはあると思います。いろんなことをやっていくことで自分の力になっていくのではないでしょうか。
 ただ、その「これができます!」ということがないってことは、弱みだってことにもなるとは思います。

(ひろやす)先日、京都の佛教大学に行ってきたのですが、佛教大学には社会福祉学部があって、日頃から支援活動をやっているようです。そんな中から、震災後に現地にいって活動するという動きが自然にでてきたようですが、愛媛大学から現地にっていう人はいましたか?

(楠橋さん)松山大学からは、「現地に行こう」という人やグループもいたみたいですね。自分たちは、ボランティアに行くにしても自己完結でやらなければいけないので難しいと考えていました。むしろ、「愛媛にいてできること」をやろうというコンセプトだったので。ただ、今回、私も福島に住んでいるので、私たち二人のところを回る感じで、夏休みに行ければいいよね、という話はありました。

(ひろやす)愛媛大学への転入を考えたって噂を聞いたんですが…

kusuhashisan[1]
<愛媛新聞6月16日記事>

(楠橋さん)転入までは考えていないんですよ(笑)、あれは新聞に勝手に書かれたんです。
 単位互換のことを考えていました。福島大学も単位互換の制度があるということだったし、愛媛大学でも無償で受け入れます、ということを言っていたので、愛媛大にも実際に話を聞きに行ったのですが、大学の人も事情を良く知らず…話に行きつくのにも一苦労で、それで萎えてしまって…。最終的には、「福島大学がいいといえばいいですよ」、ということになったのですが。

(ひろやす)それでも戻ってこようということになったのは?

(楠橋さん)福島大学を休学しようと思っていました。そこで教務課に相談したのですが、「そういう理由では認められません」という反応でした。それに、単位互換はもともと提携しているところしか認めていない、とのことで、「帰るしかないか…」と思うようになりました。
 今では、「福島でできることも多い」と思いなおし、自分ができることはこっちにいてこそだろうし、愛媛の人も活動しやすくなるかもと考えています。

(ひろやす)休学や単位互換については、学類ごとに対応が違うようです。うちの学類の対応は(…ごにょごにょ)。学類内では、休学にしても単位互換にしても、自由に認めるべきだという意見も根強いのですが。

(楠橋さん)単位互換のことについては、学長が参加する説明会で、「個別に相談してほしい、やります」、との反応もあったのに、そういう結果になり、「えー、そうなの~」、と思ったこともありました。

(ひろやす)ボランティアには以前から関心があったんですか?

(楠橋さん)もともと関心があったわけではなく、今回のことがきっかけですね。それに、自分はボランティアを始めようと思って始めたわけではなく、「何かできないか?」という思いだったんです。

(ひろやす)周りにもそういう人は多いですか?

(楠橋さん)あまりいないですね。部活やバイトをしている人が多くてなかなか手が回らないみたいです。仲間探しをしたいとは思っています。ですが、今は、私生活とボランティアとのバランスが分からなくなっている状況です。手を広げすぎて自分でできるのかと思うと躊躇があって、自分のなかでも何をしたいのか、きちんとはまとまっていません。

(ひろやす)福島に戻っていくということについて、ご両親とかから何か言われましたか?心配しているでしょう。

(楠橋さん)親は、心配はしていますが、ずっと自由にさせてくれているので、止められることはなかったです。「マスクするように」、とは言われていますが。

(ひろやす)福島に帰ってきてからはどうしていますか?

(楠橋さん)NPOサポートセンターの人に相談したところ、「ハートネット福島」というところを紹介してもらい、週末に避難所に行ったりしているくらいです。他の学生と一緒に何かできないかと思っていたところ、人間発達のボランティア報告会があることを知り、行ってみました。いろいろと連絡してやってみようかな、と思っている段階です。宮城教育大学での震災全国ミーティングで、NPOの人と会ってみて、沖縄の学生さんとつながるなどいろいろとやりたいとは思っているのですが。

(ひろやす)大学内にもKey'sという団体があったり、浜通りでのビーチクリーニングというアイデア、三重県の団体と協力した子どもプロジェクトなど、いろいろあるようです。

(楠橋さん)そうですか。連絡してみたいです。
 他にも、愛媛のお世話になった組織とは、今でも避難所に行った報告などをする関係です。ここにいる大学生で何をやるのか、また、福島を支援したいという人にどういう情報を出してモチベーションを持ってもらうのか、ということも大事なことかもしれません。
 でも今は、学生のやるべきことがなかなか形になってこない、見えそうになったら手を出して、それを探し出すのが精いっぱいというところです。
 新聞記事が出た後、中学校の担任の先生から連絡があり、福島のことを話してくれないか、と声をかけてもらいました。今後打ち合わせをすることになっていますが、震災体験を語ることもできますね。

(ひろやす)学生さんの自主的な活動を、大学が支援するその方法にはどういうものがあると思いますか?経済的にも大変なんじゃないですか。

(楠橋さん)経済的な問題もそうですが、学生だけだと突っ走ってしまう部分もあると思うんです。教員の助言など道を示してもらえるようなことがあってもいいのではないでしょうか。また、企画へのちょっとしたヒントなどがもらえるとうれしいですね。そうすれば入口としてとても入りやすくなるように思います。

(ひろやす)長時間ありがとうございました。
 最後に…愛媛出身の楠橋さんといえば、「みかんご飯」と「高速瞬き」ということになっているみたいです(笑)。紹介してもらっていいですか?

(楠橋さん)え~!
 みかんご飯というのは、お米をポンジュースで炊く、というものです(みかんを入れてもいいんですよ)。粒入りポンジュースを遣うのがいいみたいです。自分も食べたことはないんですが、噂では学校給食で出るところもあるらしいです。うちは、実家から、1ケースずつ、粒入りと粒なしのポンジュースが送られてくるんですよ。欠かせません。
 高速瞬きは…ちょっと待ってください。「加速段階」から「最速状態」までは助走が必要なんで…こんな感じです。

(ひろやす)ひえ~、すごい!。

*****

インタビューを終えて

新聞記事には楠橋さんが福大生と書いてあったのですが、どこの学類生か分からず、ネットで検索してみたところ、陸上競技部所属の人間発達文化学類生であることが分かりました。部員紹介には、好物が「みかんごはん(!?)」、特技は「高速まばたき(!?)」と書いてあり、ぴたもひろやすも、楠橋さんのインタビューを心待ちにしていました。

実際にお会いした楠橋さんはとても爽やかで、てきぱき話してくれました。被災後の福島から苦労して郷里に戻り、翌日からはさっそく支援活動に取り組んだと聞き、そのバイタリティにはビックリしました。さすが、スポーツウーマンですね。

楠橋さんのお話からは、何かしなければと考えうる限りのことに取り組み、「学生ならではの支援」のあり方を真剣に模索している姿が伺われました。

夜室長は、インタビューを通じて二つのことを感じました。
一つは、学生さんには、ボランティアのような、いますぐできる即効性のある取り組みだけではなく、中長期的な視点で、広い意味での「支援」に取り組んで欲しいということです。たしかに目の前で困っている人を助けたい、役立ちたいと思って行動することは貴いことですし、それによって救われる人がいて感謝されれば達成感・満足感もあるでしょう。
でも、自身のネットワークを広げるとか、さまざまな経験を積むとか、自分の専門の学びを深めるということも、それに劣らず重要であり、被災者・被災地支援の視点を見失わなければ、けっして個人的な満足では終わらず、「支援」につながるのではないかと思います。

もう一つは、そのような学生さんの多種多様な取組みについて情報を共有することです(このブログはその一端を担ってきましたが)。
福島大学は学生数約4千人のこじんまりとした大学ですが、その中で、学生さんがどのような活動をしているのか互いに知る機会が少ないような気がします。
今回、楠橋さんの活躍についても、同僚が送ってくれた愛媛新聞の記事を通じて初めて知りました。ボランティアについては福島大学学生災害ボランティアセンターが立ち上がりましたが、それ以外の取組みについても、情報共有の場が欲しいと感じました。そのような場を通じて、さまざまなアイディアが生まれ、支援の輪が拡がっていくのではないかと期待しています。

「気持ち」を「形」にするには…愛媛・松山での復興支援①

 6月16日の「愛媛新聞」に、「今治出身福島大生と岩手出身愛媛大院生 復興支援の架け橋に 18日松山でコンサート企画」という記事が掲載されました。愛媛・松山で活躍する福大生…興味がわきますよね!
 今治出身の福島大生=楠橋さんは、人間発達文化学類3年生。
 同じ四国出身ということで興味をもったぴたがお願いする形で、「ひろやすの部屋」に来ていただくことになりました。
 楠橋さんは、311には南福島にある自宅で被災したそうです。その後、今治に帰り、松山で復興支援にかかわるまでどのような経験をし、また再び大学に戻って以降、自分の活動を振り返って考えることや、今の心境について、お話していただきました。
 「学生として何かしたい!」「自分たちにできることをやりたい!」という気持ちを持っている人は多いと思います。その「気持ち」を「形」にするには…その難しさとともに、その可能性を感じるとても印象的なインタビューになりました。
 2回に分けて掲載します。

kusuhashisan.jpg

・・・・・・・・・・

(ひろやす)こんにちは。所属している学類も違うのに、わざわざありがとうございます。愛媛新聞の記事を、いろんな方がこちらに送ってくださったので、以前からぜひお話を聞きたいと思っていました。よろしくお願いします。
 311当日の様子を教えてください。

(楠橋さん)当時は南福島のアパートにいました。バイトに出かける前の休息中でした。緊急地震情報でびっくりして目を覚ましましたが、その後すごい揺れで、部屋を飛び出しました。立っていられないくらいの揺れでした。部屋はテレビが倒れたり、トイレのタンクから水があふれたりで、大変でした。自宅は電気とガスは使えましたが、水は止まってしまいました。

(ひろやす)その日はその後、どのように過ごしましたか?

(楠橋さん)自分の家にいました。陸上部の友人が合宿で千葉に行っていて、頼れる人があまり近くにいなくて…。電話が使えずなかなか連絡が取れなかったんですが、兄弟からメールが来てようやく連絡がつきました。夜には親とも話すことができました。その後もしばらくは一人で過ごし、友人が合宿先の千葉から戻ってきてからは(バスで10時間以上かけて帰ってきたそうです)、一緒にいました。

(ひろやす)福島にはいつまで?

(楠橋さん)実家に帰りたいとは思っていましたが、公共交通が止まってしまったり、臨時で飛んでいた飛行機は満席だったりで帰れませんでした。Mixiに書き込みをしていたのですが、「新潟か山形に出ないとその先に出られない」、と教えてくれた人がいて呆然としました。
 しばらくして新潟出身の先輩が福島まで迎えに来てくれることになりました。新潟からやってきてアパートで一泊したあと、翌日、周辺に住んでいる友人にも声をかけ、軽自動車に4人で乗り合わせて新潟に出ました。それに膝の上にはハムスターを乗せて(笑)4日目の朝だったと思います。その日は新潟の先輩の家で一泊させてもらい、その後新幹線で東京→岡山→愛媛と乗り継いで今治の実家に帰宅しました。

(ひろやす)福島に残った4日間はきつかったでしょう。

(楠橋さん)はい。なにより心細くて…周りに人がいない、水がでない、そのうえ連絡がつきにくいという状況でしたから。テレビで情報を得て、Mixiで励まされて…という状況でした。福島にいる間に大学からは連絡がありませんでした。その後、愛媛に帰ってから、指導教員の先生から安否確認の連絡がありました。

(ひろやす)福島に残っている間の食べ物はどうしていましたか?

(楠橋さん)蓄えというほどのものはなく、お菓子くらいしかありませんでした。あっ、お米がたくさんあったかな。当日はバイトの予定が入っていたので、揺れがおさまった後、バイト先に行きました。店長が出勤していていろいろ心配してくれました。水がないというと水を分けてくれ、その水で米を炊いて食べていました。その日、ミニストップで買い物ができることが分かったときは、水を使わなくても、レンジやガスだけで調理して食べられる物を買いました。おにぎりはなかったので、カロリーメイトやコーンフレークですね。「たこわさび」も買いました(笑)。翌日、ヨークベニマルが駐車場で物を売り始めたので、一時間待ちでしたが、食料はいろいろ買えました。

(ひろやす)ひとりで全部やるのは大変だったよね。

(楠橋さん)はい、ニュースもチェックしたいし、バイト先も手伝いたい。買い物も行かなければいけないしで…何からやればいいんだろうと悩みました。食べる物の調達は最優先でしたが。

(ひろやす)新潟から愛媛に戻るまではスムーズに行けたんですか?

(楠橋さん)新潟までの道中、福島県内でガソリンをいれられず、どきどきしましたが、なんとか新潟に入ったところで給油はできました。新潟からは新幹線だったんですが、電車が大宮で停止し一時閉じ込められました。これは怖かったです。東京から岡山までは、切符は取れたんですが、大混雑で、多くの人が通路に立っていました。東京駅のホームでは、お父さんがホームに残り、お母さんと子どもだけが電車に乗って…というシーンをいくつも見ました。

(ひろやす)お父さんを残し、母子で東京を脱出する人も多かったみたいですね。
 ところで、愛媛に帰ってから、どのように活動にかかわることになったんですか?

(楠橋さん)その後関わることになる愛媛の大学生グループは、私がまだ福島にいるときから募金活動をしていたようです。高校時代からの知り合いで愛媛大にいる友人がMixiで「松山市で募金活動をします」、と書いていました。福島にいるときから、そういう友人たちの動きに勇気をもらっていました。
 自分は、福島に残っている友人、福島を出ていけない友人がいる、ということになんとなく罪悪感を感じていました。長野に戻った友人とも、「俺たちにできる復興支援をやろうな」、と話もしていました。
 今治に戻った翌日、「愛媛学生支援組織」の代表の人にブログを通じて連絡をとり、その翌日から、松山市での募金活動に参加させてもらうことにしました。今治から松山まで毎日通うのは大変なので、愛媛グローバルネットワークというNPO法人のスタッフの家に泊めてもらっていました。松山に泊まりこんでの活動は、ほぼ2カ月くらいでしょうか。泊まり込みで活動していたのは私だけで、市内の大学(愛媛大、松山大、東雲大、聖カタリナ大学など)の学生中心で活動していました。当時、募金活動への参加者リストには100名近くの登録があったと思います。

(ひろやす)募金活動というのはどんな感じで進めたの?

(楠橋さん)高島屋の前に立っての街頭募金です。1日3時間ほど募金活動を行い、その後1時間程度の話し合いと反省会、という感じでした。

(ひろやす)町の人の反応はどうでしたか?

(楠橋さん)初めのころは反応がすごかったですね。一日20~30万円くらい集まったと思います。日が経つにつれて、募金をしている団体も増えたこともあって、金額自体は減ってきました。少ない時は1万円、平均で2万円くらいだったでしょうか。

(ひろやす)募金活動の期間は?

(楠橋さん)3月の間はほぼ毎日でした。募金活動でも警察に届けなければならなくて、月末に何日か休みましたが。4月は大学の授業の開始までは毎日でしたが、その後は週末だけの活動になりました。

(ひろやす)募金活動以外にも活動はありましたか?

(楠橋さん)NPOの方と一緒に、愛媛県社会福祉協議会のボランティアネットワーク組織の会議に参加させてもらって勉強しました。また、航空会社の「スカイマーク」と連携した「元気スカイプロジェクト」という無料で支援物資を送る活動にかかわった人の話を聞きに行ったり、被災地の現場にボランティアに行っているNPOの活動報告会を主催したり、といったところです。メガネ屋さんがメガネを被災地に送ったという話を聞き、そうした面白い活動をしている人を招いた報告会もやりました。そうそう、「炊き出し訓練」というのもやりました。愛媛の人に対する啓発活動を目的としたもので、炊き出しをやって、イベントにやってきたひとに食べてもらう、その収益は募金に回す、という活動です。

(ひろやす)被災地に直接出向いていく、ということはあったのですか?

(楠橋さん)そうですね…私たちは愛媛にいて出来る活動を、ということがあったので、被災地に出向くということはなかったです。愛媛県社協は、ボランティアバスを出していて、学生や技術者を被災地に連れていくということもやっていたようです。学生団体の代表なんかは参加していました。

(ひろやす)活動には大学の教員などは関わっていましたか?実は、福島大学出身で、現在、愛媛大学で教えている教員もいるんですよ。また、東北出身の学生さんの参加などもありましたか?

(楠橋さん)教員の方でこの活動にかかわった人はいないと思います。東北出身は、新聞に載っているように、一緒に活動した上館さんは岩手出身の愛媛大生でしたが、基本は愛媛にいる学生さんが中心でした。また、一緒になって動いたのは、大学というよりもNPOや社会福祉協議会の方ですね。

(ひろやす)主催した報告会への参加者は多かったんですか?

(楠橋さん)学生がほとんどでした。それも支援組織に登録している人です。広報がうまくできなくて、参加者もそれほど多かったわけではありません。何かをやろうとしても空回りして、なかなか形にならずにもどかしい思いもしました。

(ひろやす)活動をやってみて、「学生ならでは」と思ったところはありますか?

・・・・・・(→次回に続く)