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ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

ぴたは政治学者か? えー、ウソでしょ~!

 ぴたは、政治学を研究してきたはずなのですが…僕の先生や、大学院時代の友人なども、いったいぴたが福島で何をやっているのか、と思っているのではないかと想像してます。本人も、いったいぜんたいどうなっているのか、わけがわかりません(笑)。今日は、二つ前の記事の続きです。お時間があったら読んでみてください!だ

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原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活
(著者)福島大学行政政策学類 ぴた

(…続き→前の記事は、こちら

 その契機となったのが、「20ミリシーベルト」問題である。文部科学省が2011年4月19日に、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトに達するかどうかの目安を示して、被災地の学校再開の基準を定めた。この基準が示される前に、福島県内の小中学校の再開は決まっていたが、小中学校を後追いする形で、大学の新学期開始日程も決まる。子供を連れて県外に避難していた多くの家族が、学校の再開とともに福島に戻る決断をし、私たちも学生も、被ばくという得体のしれない危険を日々感じながらの日常が始まった。自分たちでなんとかしろ!といっていた中央政府は、ふたたび、私たちの生活や命の大事なところをコントロールするリーダーシップと権力を取り戻し始めたのである。政府の決定に従い、大学本部も新学期開始を決めた。確かに、「20ミリシーベルト」基準に対し、当初、福島ばかりではなく全国的にも大きな反発がひろがったが、そうした声は次第に萎み、その後は大きな反発も圧力も受けることなく、政府と大学本部は、ポスト原発事故後の社会運営の主導権を再び手にしていった。
 その後は、復活した「トップダウン」体制と、自分たちの命や健康のことは自分たちで決めたいという現場の「自治」意識のズレが次第に拡大し、それを社会全体が容認、黙認していく過程である。たとえば、2011年7月1日から発動された「電力使用制限令」。これは、電力危機を避けるため電気事業法27条に基づき政府が発動したもので、東京電力と東北電力の管内にある大規模な工場や商業施設、オフィスビルについて、最大電力を前年夏より15%削減するよう求める強制措置であった。被災地域にある公共施設の約30分野は強制措置の除外対象となっていたが、福島大学はこの除外施設扱いにはならなかった。大学は、制限令の対象になったことへの不服を弁明書という形で提出し(行政手続法にのっとった手続き)、「原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、放射性濃度が平常値よりも40倍ほど高い数値となっている。このような状況のもとで、学生の授業や教職員の業務を行うにあたり、窓の開閉等で室内温度の調節をはかるのは、砂埃等に交じった放射性物質が室内に入る恐れがあることを考慮すると厳しい」と訴えたが、認められなかった。その後大学では、「節電行動基本方針」なるものを作成し、「教育・研究等の活動に支障が生じない範囲で」との限定つきながら、「外気を利用し空調を停止する等の使用抑制」が勧められることとなる。「弁明書」と「基本方針」の間で、「窓の開閉」「外気の利用」についての評価が真逆になっていることに驚かされるが、大学本部は政府の方針のもとに逆らうことはできず、結局はそれを前提に「基本方針」が書かれることとなった。授業開始が遅れた分夏休みを削って暑い中授業を続けた福島大学の学生教職員は、被ばくの恐怖におびえながらも、「窓を開けるという重い決断(!)」を迫られた。そうした事実は報道されず、この指針に従った現場の学生教職員は、誰にも知られることなくひっそりと被ばくすることとなった。今や、自分たちで決められることはほとんどなくなってしまった、また、そうしたことをおかしいといって声を上げる人たちもいなくなってしまった、という事実を思い知らされる、悲しい出来事であった。
 震災直後の担当学生の安否確認作業、それに続く避難(帰宅支援)バスの企画と運営、学生の屋内退避・全面的避難計画の策定作業、さまざまな除染作業の試みなど、私や同僚たちは、福島大学の教員がやるべきことについて、やれることは、不十分ながらも、必死に取り組んできた。しかし、「やるべきこと」を決めるのは、私たち現場の人間ではなくなり、どこか遠くで決まったことが、いつの間にか現場にいる私たちに、「やるべきこと」として差し出されるようになってしまった。それは、自分たちでは「何もできない」、に等しいことでもあった。
 そんななか、確かに、「研究室に戻る」、という選択肢もあり得ただろうと思う。原発事故を目のあたりにし、それがいかに異常なことかを身をもって体験した一人として、原発のない社会、原発に依存しない国づくりに向けて何が必要なのかを研究することは、大切なことだと思う。日本の政治学研究者、ましてやドイツ現代政治を専門とする政治学研究者にとって、原発事故の起こった日本で脱原発が実現せず、逆に、なぜ、かの国ドイツで原発のない社会の未来像を国民が幅広く共有できるのか、という疑問を解くことは、重要な知的課題であることに疑いはない。私も、福島の政治学研究者、それもドイツ現代政治の専門家として、「脱原発」「原発のない社会を!」という理念を、脱原発の比較政治研究を通じて「形」にする、という選択肢もありえたかもしれない。
 しかし、原発のない社会を!という想いは当然持っていても、震災以降、福島に住む一人として経験したこと、また、自分たちよりももっと過酷にその現実に直面せざるを得なかった飯舘村や葛尾村など、避難指定地域を故郷とする人たちと関わるなかで経験し、学んだことを、「脱原発」や「原発のない社会を!」、という言葉では、まとめられない気がするのも事実である。国や組織のトップダウンによる運営が、結局は、トップに立つ者の都合のいい時、都合のいいテーマだけのリーダーシップであって、現場は、丸投げされるにしろ、逆に、コントロールされるにしろ、結局は顧みられることが少ないという事実への反発は、「脱原発」という言葉で表すことはできない。また、東京で開催された「福島原発事故による学校・機関への影響と対応を考える」という研究会で、福島からの参加者が切羽詰まった質問を投げかける一方で、東京からの参加者が放射線の物理に関する無邪気な質問を出すのを聞いた時の違和感も、「原発のない社会を!」という理想へと解消できそうにない。20ミリシーベルトという基準で福島に住み続けることを余儀なくされていながら、自分でできる数少ない被ばく対策でもあった「窓を閉める」という対応も、電力制限の名のもとに制限されてしまう現実や、多くの人にそうした事実があることをしられることなくひっそりと被ばくが強いられる現状に抗議するのに、「脱原発」という主張を掲げるのはおかしいだろう。仮設住宅に残らざるを得ない高齢者が、あまりに狭い仮設住宅で、昼間はこたつを出し、夜になると寝るためにこたつを片付けて布団を敷かなければならないという(理不尽な)現実を何とかしたいと思った時に出てくる言葉は、「原発のない社会を!」、ではない。要するに、「原発のない社会の実現」とは、事故が起こる前のスローガン、あるいは目標であって、「その後」である現在、放射線被害に日々苛まれる私たちの「想い」ではあっても、今の福島の現実とかかわりの薄いスローガン、「理想」なのである。原発事故後の私たちは、「原発のない社会」が実現できないまま、その原発が爆発して放射能が撒き散らされるという現実の中に生きている。「脱原発」は私たちにとっては、すでに遅すぎた目標、達成されることのなかった目標なのである。
 このことは、原発事故被災地である福島で、いわゆる「脱原発運動」が盛り上がらない理由でもある。週末に繰り返される福島駅近くの脱原発デモを、多くの福島市民が横目で見ながら通りすぎる(私もその一人だ…)光景は、見た目の派手さにもかかわらず、痛々しいものがある。「○○原発再稼働反対」。その思いは共有できたとしても、原発がすでに爆発してしまった福島にとっては、もう遅すぎる、という気持ちをどうしてもぬぐえないのである。
 しかしもしそうだとすると、福島で政治学研究と教育を仕事とする私は、何をしたらいいのだろうか?
 一方で、自分たちの健康や生活を大きく枠づけるイニシアティブは、政府に、そしてリーダーシップ型運営を強める大学本部に握られてしまった。震災と原発事故の混乱のなかから「日常」を取り戻し、かつての「改革」の復活とさらなる強化への動きを支える国民世論も強まっている。そんななか、被災地の現実を自分たちの手で少しでも良い方向へ、という気持ちはどうしても萎えてしまいがちである。他方で、自分の思い通りに進められるかもしれない政治学研究の世界で、脱原発の比較政治学といったテーマで、今自分がこの福島で研究を深めていくことが一番重要な課題であるようにも感じられない。
 だとすれば、自分は何をすべきで、何ができるのか。福島の現実から出発しながら、政治学の訓練を受けてきた人間として、福島大学の教員として、自分ができること、やるべきことは何なのか。「できることは実は何もない」、という「悪夢」は、いつも頭の片隅にある。この4年間は、悪夢を打ち消すための試行錯誤でもあった。そんななか、ある意味なりゆきで始めたのが、「かーちゃんの力・プロジェクト」であった。
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お久しぶりです、ぴたです!

 ずいぶん長い間、ご無沙汰してしまいました。ぴたです。
 嶺風委員のみなさんの記事を読み、再びまた、ぴたを思い出しました。なつかしのぴた。
 これからまた、時々は記事を書かせてもらおうと思います。
 これまでブログへの記事掲載をさぼっていたわけですが、何もやっていなかったわけではありません。
 「こんなことしてました~」、のご紹介に、昨年度末に書いたちょっとした文章をここに掲載させていただきます。
 まじめに書いた文章です。ふざけたぴたは、また近々登場しますので…今しばらくお待ちください。
 この文章は、熊本大学法科大学院の紺屋博昭先生(労働法)と知り合ったことがきっかけで書いたもので、紺屋先生が主宰される「雇用構築学研究所」が定期的に刊行されている「ニューズレター」(49号, 2015年1月発行)に掲載していただきました。
 文字ばかりで読んでいると頭が痛く(悪くも)なる文章ですが、時間があるときにでも、読んでみてください!
 何回かに分けて掲載させていただきます!

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原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活
(著者)福島大学行政政策学類 ぴた

□ はじめに

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から4年が過ぎ去ろうとしている今、福島で生活する平凡な政治学研究者の日常生活に、どれほどの関心を持ってもらえるのか、甚だ心許ない。そのことは十分承知しているつもりだが、こうして短い文章を書く機会を与えていただいたことに感謝しつつ、福島で過ごす私の日常生活を記させていただくことにした。
 うどん(香川)県出身の私が福島に来ることになったのは2000年のこと。たまたま募集していた福島大学行政社会学部の「政治過程論」のポストに応募し、幸運(偶然)にも採用してもらった。ドイツなどのヨーロッパの現代政党政治を専門にしつつ、日本も比較政治の対象としうるような人材として採用されたのだと思う。そんなヨーロッパ現代政治専門の研究者が、福島で2011年の大震災と原発事故を直接経験したのだから、読者のみなさんならきっと、私が新しい研究課題、たとえば、「なぜドイツでは脱原発で社会的コンセンサスが得られたのか?それとは逆になぜ日本では…」、といったテーマを得て、その問いの解明に取り組んでいると期待されるかもしれない。しかしながら、震災から4年間、私はそうしたテーマでの論文を書くことが出来なかった。比較政治学を専門とする県外他大学の政治学研究者たちが、そうしたテーマで論文や著作を発表しているのを目にすると、内心、忸怩たる思いがないわけではない。
 震災が起きてから4年間ずっと(誇張なく本当に毎日)、私は、飯舘村や葛尾村といった、放射能汚染により全村避難を余儀なくされた阿武隈地域の女性農業者たちと始めたプロジェクト、「かーちゃんの力・プロジェクト」に携わってきた。震災以前の阿武隈地域は、農家女性による農産加工品づくりと直売場等での販売が大変活発な地域だった。農と食で地域を守ってきた農山村地域をまるで狙い撃ちするかのような放射能汚染によって、地域の女性たちは避難を余儀なくされ、自らの農地も食品加工場も、そして同じ加工食品づくりの仲間とのネットワークも失ってしまった。私たちのプロジェクトでは、そうした女性農業者たちが再び集まり、避難先である福島市で、放射能汚染や風評被害といった難しい条件のもとでも、再び農業と農産物加工で生活基盤と生きがいを取り戻す、という困難な試みを続けている。
 政治学の研究者であるにもかかわらず、震災と原発事故の被害のなか、比較政治学の重要課題に取り組まず、なぜ、農業と農産物加工に取り組むことになったのか、その経緯を自分なりに振り返ってみたいと思う。

□ 何もできない大学教員

 震災直後、私の所属する行政政策学類の教員有志は、春休み中に福島に残っていた学生たちをなんとか県外に避難させようと、バスの運行を企画し、実施した。私たちは当初、希望する学生を県外に送り出そうというこの取り組みを、その本来の目的のとおり「避難バス」と呼んでいた。しかし、この企画に大学当局が関与し始めると、「避難バス」という用語の利用が禁じられ、「帰宅支援バス」という名前に変更されてしまうことになる。大学本部によれば、バスの目的は、公共交通の不通によって帰宅できなくなった県外出身の学生たちの「帰宅支援」であるという。大学が所在する福島市は政府から避難を指示されている地域ではないのだから、「避難」という言葉を使うことはまかりならん、ということだった。
 避難バスは、3月16日と17日の2日間にわたり、公共交通が機能している那須塩原駅、会津若松経由新潟駅、米沢経由山形駅の3方向に向けて、学部教員の引率のもとで運行した。避難バスの運行のために私たちがおこなったのは、バスの予約だけではなかった。運行の前日には、乗車希望の学生に対する説明会を行い、運行当日も、乗車する全学生の最終目的地や実家の連絡先までを記載した名簿を作成し、全員からの無事到着の連絡をもらうまで、朝から真夜中まで作業に追われた。
 そんな折、こんなことがあった。「避難バス」という企画を独自に進める私たちの学部が、実際、どのようなことをしているのか知りたかったのだろう(個人的には、「偵察にきた!」と思ったが…)、研究担当の高橋副学長が、16日の避難バスの学生説明会の会場に突然姿を現した。説明会ののち、高橋副学長は、私たちが作業する部屋に押しかけ、原発事故の現状について話を始めた。機械工学が専門で、放射線にも詳しい(らしい)副学長の弁舌は滑らかだった。今、原発で何が起こっており、それをどう評価すべきか、学者らしく滔々と自説を展開した。私は、コンピューターに向かってやらなければならない作業をしながら、副学長の話を適当に聞き流していたが、そのうち大きな疑問が湧いてきた。私たちは、数分おきに起こる大きな余震に怯え、原発にいつまた突発的な事態が出現しないかと不安に駆られながらも、延々と作業に追われている。朝から夜遅くまでテレビはつけっぱなしになっていたが、私たちは作業に集中するあまり、実際には外で何が起こっているのかほとんど知ることもできないままだ。それなのに、副学長はどうしてここまで事態に詳しいのか?前代未聞の大震災と津波、そして原発事故という未曾有の事態のなか、学生や教職員を守るための仕事に追われながらも、テレビを見ながら最新情報を分析する余裕でもあるというのだろうか?
 私は無邪気にも、学長を中心とした大学本部が、学生はもちろん教職員とその家族を、この大災害と原発事故から守るという強い意志をもって職務に追われているはずだ、と思い込んでいた。避難バスの運行のためだけでもこれだけの作業があるのだから、きっと大学本部も、背負いきれないほどの業務量に押しつぶされているのだろう、と思っていた。地震直後に大学当局は、学生の安否確認に直ちに着手しないまま大学を閉鎖する措置をとったり、交通手段が確保できない教職員が何時間もかけて出勤せざるをえない状況を放置したりしていた。マスクやレインコートの配布など、教職員の放射能防護対策への努力も怠っていたし、この異常事態のなか、3月末の決算にむけた書類の提出依頼といった「通常業務」が平然と続けられるなど、大学運営は混乱していた。こうした大学本部の混乱も、あまりの業務量と忙しさゆえのものだと考えていた私は、高橋副学長が工学者として、また放射線に詳しい(らしい)専門家として、事態のなりゆきを見守る余裕を持っていたことに心底驚いた。学内で何が起こり、なにが求められているのかについての把握し、大変な思いをしながら仕事をする現場の教職員の激励に来たわけではなく、大変ななか忙しく作業を進める私たちに、原発で何が起こっているのかを説きにきたという事実に、愕然とした。しかし、未曾有の事態のなかで何をすべきか、それを提起し、議論のなかで大学運営の方向性を明確にするとともに、その実務を担う私たち教職員を支援するのが、本来の大学本部や役員の役割ではないか。結局のところ大学本部は、当初私が無邪気に思い込んでいたように、やるべきことに追われて混乱状況に陥っていたわけではなく、単に、これまで経験したことのない事態のなか何をしたら良いのか分からなかったのである。「情報収集」の名のもとテレビにかじりつき、「専門家」として原発の現状やその解説を弁舌滑らかに語る副学長への苛立ちは、私だけではなく、その場の同僚も感じていたようで、黙って聞いていた私たちも次第に耐え切れなくなり、「今、大学としてやるべきことは何か」、という議論からしだいに口論となり、結局副学長は、逃げ帰ってしまった。いや、私たちが追い返してしまったと言ったほうがいいかもしれない。
 またこんなこともあった。4月に入っても当然、大学は新学期を開始できない状況が続いていたが、いずれやってくる2011年度の新学期に向けて、大学として何をすべきか、難問は山積していた。もっとも重要な課題は、放射能汚染が広がるなか、学生や教職員の放射線防護対策をどう行うのか、ということだった。しかし同時に、出身国から退避勧告を受けている職員(外国人教員等)の扱いはどうすべきか、留学生への対応、他の大学に移りたい、避難のために休学したい、という学生にどう対応すべきか、等々、前代未聞の事態に追い込まれた私たちは、解決すべき課題の多さに押しつぶされそうになっていた。
 そんななか、偶然、「NPO法人学校経理研究会」と「国立大学マネジメント研究会」という組織が企画する、「福島原発事故による学校・機関への影響と対応を考える」という研究会が4月26日に東京で開かれ、文部科学省高等教育局から2名の専門職員が来場し、講演することを知った。彼らは、「外国人留学生・教員への対応」「災害時の労務対応」、「計画停電の影響―節電、授業時間の確保、ボランティアの扱い等」をテーマに話をするらしい。ならば、この研究会に出席して、文部科学省の方針を知り、アドバイスを受けながら、現場での具体的な課題への対応を考えてみよう。そんな思いで東京に向かった。その時の講演で2人の文部科学省の職員が何を語ったのかは一切覚えていないが、体育の授業の運営について質問した私に、そのうちの一人が答えた言葉は今でもハっきりと鮮明に覚えている。彼は、「なにかいいアイデアがあれば、ぜひ教えてほしい。私たちもできるだけそれを取り入れるようにする」、と言ったのだった。私たちはアドバイスをもらうつもりでいたが、逆にアドバイスを求められたのである。福島市内の私立学校からきた職員は、グラウンドの利用や窓の開け閉めについての文部科学省の考えを問い質したが、その職員から指針めいたアドバイスが示されることはなく、中身のない回答に呆然としていた姿が思い出される。
 私たちの質問にはほとんどなんの意味ある回答がなかった反面、東京にある私立大学の職員が、「鉛などの遮蔽物にあたった放射線はその後どうなるのか?」、という質問に対しては、工学博士からのきわめて明快な回答がなされた。東京と福島、彼らと私たちの関心や疑問の違いと、それへの回答のあまりの落差に打ちひしがれ、取り残された気持ちで、現場である福島に戻って行ったことを覚えている。結局私たちは、放射能汚染の現場で、大学として「やるべきこと」と「できること」、を自分たちで考えだすしかなかったのだ。
 しかし振り返ってみると、そもそも、2004年の大学の法人化以降、この時期までに進められてきたのは、学長や役員会への権限の集中、リーダーシップの強化、「上が決めて、下が従う」式のあらゆる「改革」ではなかったのか。大学運営ばかりではなく、民間企業でも経営の合理化やスピード感を持った経営の実現のために、組織改革が進められ、各社にCEOをおいて権限を集約させ、彼の指示に従って動くべき現場は、正社員から派遣やパートに置き換えられたのではなかったのか。さらにいえば、政治の世界においても、首相への権力集中が言われ、それを可能にするための小選挙区制の導入や二大政党制の実現が目指され、そうした一連の改革の「成果」として、各地でポピュリスト政治家が地方政治のトップに立ったり、政治のリーダーシップのもと一方的に組織の改廃や予算配分が決定される「仕分け」が行われてきたのではなかったのか。混沌とした事態のなかで、スピード感と明確な指針を示して新たな道を切り開くリーダーシップのための体制づくりと称して、組織トップがもつ権限の集中と強化が、政治経済から大学運営まで、あらゆる分野で進められてきたはずだ。
 しかし、困難な事態を前に起こったこと、すなわち、原発事故という究極の瞬間で私たちの前で繰り広げられたのは、それまで進められてきたはずの改革の理念とは正反対のものだった。すなわち、決断する権限と責任は、組織トップや負うべき人が負わず、あっという間に、「現場」に移譲されてしまった。混沌とした事態のなかで、今やるべきことを考え出し、それを実行する役割は、すべて現場に丸投げされ、押し付けられた。「自分たちで何とかしろ」――こんなものを「リーダーシップ」というはずがない。
 現場で起こったのは、政府にしろ大学本部にしろ、トップからのあっけないほど露骨な「丸投げ」だった。私自身はそもそも、大学の独立法人化や学長への権力集中、民間企業の経営改革と雇用改革、そして小選挙区制の導入を柱とする政治改革などに批判的な立場ではあった。しかし、原発事故による放射能汚染という未曾有の出来事のなか、ここまで露骨に「改革」の内実と本質を見せつけられるとは思わなかった。
 他方で、丸投げされたからこそ、自分たちでやるしかない、やってやろう、という意識が高まったことも事実である。学長や大学本部が、何をやるべきか分からない、思いつかないのなら、自分たちの学部独自で避難(帰宅支援)バスを企画・運営しよう(どの学部の学生でも乗車できるように組み立てよう)と考えたのは、そうした文脈のなかからである。避難(帰宅支援)バスの運行をやり遂げたあとも私たちは、避難地域がさらに拡大されたときに備えて、学生の屋外避難の際の運営体制や、全面的な避難計画の策定に乗り出していた。「自分たちで何とかしろ」といわれるのは、見方を変えれば、「自分たちのことは自分たちで決められる」、ということでもありうる。政府や大学本部がお手上げ状態のなかで、自分たちのことは自分たちで決め、実行することができるかもしれない、そんな立場に立っていたともいえなくもなかった。いわゆる「災害ユートピア」は、同じ境遇を共有する被災者の間に生まれる連帯感のことを指しているが、そこには、究極的な困難のなかで、「自分たちのことは自分たちで決められる」、といった「自治」の原初的な形態への期待も含まれているのかもしれない。
 しかしながら、私たちには、「自治」が認められたわけでは決してなかった。よく考えてみればすぐわかるように、「自分たちで決められる」範囲はそもそも大きくなかった。たとえば、可能な限り被ばく線量を少なくしようと、自分たちだけで様々な除染作業に(汚染水まみれで)取り組んだが、得られた成果はほとんどなかったし、大学を移転させて再開するといったアイデアも、実現可能性はほとんどなかったのである。避難(帰宅支援)バスは、震災直後という時期だからこそ、実現可能であったにすぎなかった。自分たちの生活や被ばく状況を決める「権限」は、その当初から、私たちが思うほど大きくはなかったのである。しかしながら、その小さすぎた「権限」も、次第に私たちの手から奪われ、そのうちすっかりと私たちから離れてしまうことになる。
 その契機となったのが、「20ミリシーベルト」問題である。
…(つづく)

専門演習の選択に悩んでいる2年生のみなさんへ

【12月6日追記】
2年生のみなさん、千葉ゼミのゼミ見学は6日と13日です!!!
学友会作成のゼミパンフレットでは、10日と17日となっていますが、これは誤りです。ご注意ください!

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こんにちは、おやです。

昨日は、専門演習のガイダンスがありました。福島大学行政政策学類では、3年生・4年生と、2年間連続で、原則として同一のゼミ(専門演習)を履修します。

専門演習は、週1回、2コマ分の時間を使って開講されていますが、正規の演習時間外での活動も多く、大学生活の中心にもなりうるものです。実際に、多くのゼミが、震災からの復興に向けた取り組みなど、地域に根差した活動に主体的に取り組んでいますし、演習での報告準備やフィールドワーク等の準備にも、正規の演習時間外での活動が必要になります。

そして、大学生活において、ゼミ活動というのは、学問らしい学問に主体的に取り組むことができると同時に、一生の仲間を作ることができる、非常に貴重な場です。

その意味で、専門演習の選択は、現2年生にとって、今後の2年間の学生生活の在り方を決めるといっても過言ではありません。

そこで、今日は、私の考えるゼミ選択のポイントを、書き出してみたいと思います(この話、ざっくりとは昨日のガイダンスでお話ししたのですが、法学専攻のガイダンスに出ていない人は聞いていないと思うので…)。


①必ず、自分にとっての「第一希望」のゼミに履修希望を出すこと。

当たり前のことですが、第一希望のゼミに履修希望を出しましょう。よく、受け入れ人数が少ないからとか、ゼミ見学に行ったら見学者が多かったから(少なかったから)といった理由で、希望ゼミを変える人がいますが、これは絶対にやめた方がよいです。
受け入れ人数は絶対的なものではありません(受け入れ人数5人と言っていても、10人採ることもないとは言えません)。
また、ゼミ見学者数が多い(少ない)からと言って、必ずしも希望者数が多い(少ない)わけではありません(例えば、一昨年の清水ゼミは、見学者数が30人位いたのに第一次希望者は3人でした←涙)。
ゼミ選択は、今後の2年間の学生生活の大きな要素を決めることになるので、悔いのない選択をして欲しいと思います。

②第一希望のゼミを決めるに当たっては、まずは「ゼミの内容」を重視しましょう。

これまた当たり前ですが、そもそも興味のないことに2年間のゼミの時間を費やすことは苦痛でしかありません。ゼミのシラバスや、学友会作成のゼミパンフレットを熟読して、自分の関心のある分野のゼミを選択しましょう(いま自分が所属している専攻のゼミでなくても、もちろん構いません)。
その意味では、「友達が行くから」「現時点で希望している進路に合致しているから」という理由は、副次的な理由にはなりえるかもしれませんが、それだけで第一希望を決めることはやめた方が無難です。
友達は、新しいゼミでも出来ますし、進路は、一寸先は闇(笑)かもしれません。

③第一希望のゼミを決めるに当たっては、ゼミ見学に行きましょう。
IMGP2533.jpg
〔12月6日今井ゼミのゼミ見学の様子〕
IMGP2534.jpg
〔同中川ゼミのゼミ見学の様子〕
IMGP2535.jpg
〔同長谷川ゼミのゼミ見学の様子〕

ゼミ選択において、ゼミの内容と同じくらい重要なのは、ゼミの雰囲気が自分に合っているかどうかです。自分に合わない雰囲気のゼミに2年間のゼミの時間を費やすことは、これまた苦痛でしかありません。
ゼミの雰囲気が自分に合っているかどうかを確認するために、ゼミ見学が公開されている場合には、ぜひ、ゼミ見学に行きましょう。
そして、オススメなのは、第一希望候補のゼミ見学には、ゼミの開始時間の少し前にいくことです。この時間帯にこそ、ゼミの普段の雰囲気が一番出るからです。教員がゼミ室に来る前のゼミ室の雰囲気を見れば、ゼミ生同士の関係がどのような感じなのかが分かりますし、教員が来た直後のゼミ室の雰囲気を見れば、学生と教員の距離感がどのような感じなのかも分かるでしょう。
最低、現3年生とは1年間、教員とは2年間付き合うことになるわけなので、自分に合う雰囲気かどうかを確認することは非常に重要だと思います。
なお、実際に報告等が始まった後の時間帯のゼミ見学も、もちろんゼミの内容を肌で知る上で参考になりますが、2年生の時点で報告内容についていくことは大変かもしれません。

最後に、公開のゼミ見学が予定されていないゼミの場合には…先輩のツテを使って情報を仕入れるか、教員に直接聞いてみるか…もしくは僕に聞いてくれれば、各ゼミの雰囲気をこっそりお教えしましょうwww


以上、つらつらと書き連ねてきましたが、最初にも述べたように、大学生活において、ゼミ活動というのは、学問らしい学問に主体的に取り組むことができると同時に、一生の仲間を作ることができる、非常に貴重な場です。そして、2年生のみなさんにとって、来年度以降の専門演習での活動は、現在の学生生活の中心(2年ゼミ?サークル?アルバイト?ボランティア?etc)と、少なくとも同等の重みを持つものになるはずです。

2年生のみなさんにおかれては、どこのゼミに履修希望を出すのか、この記事も参考にしながら(?)、じっくりと考えてみてくださいね~♪

「レ・フルール」南澤学さんの話を聞く

夜の震災対策室からこんばんは、おやです。

またも間隔があいてしまいました・・・

そんな僕をいつも見捨てずに記事を書いてくれる準さん、今回は、福島駅近くのフランス料理店、「レ・フルール」さんについて、記事を寄せてくれました。僕も何度か行ったことがありますが、オススメですよー♪
ぜひ、みなさんも、ブログを読んだ上で(!)、「レ・フルール」さんを訪ねてみてください。

ではでは、準さん、よろしくお願いします!

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 震災があってから、研究や学生さんたちを連れての実習などで、避難された方や行政の担当者など、いろんな方にお話をうかがってきました。ここのところは、「福島に残って、生きていきたい」という方たちのお話をうかがうことが、多くなってきているように思います。
 最近、福島市内の飲食店経営の方とお話をする機会が、数回続けてありました。今日はその中から、福島駅東口駅前にあるフランス料理のお店、「レ・フルール」のシェフ・南澤学さんからうかがったお話を、一部ご紹介したいと思います。快く公開を承諾してくださった学さんに感謝します。

 地震の瞬間は、ランチタイムが終わって、事務室にいた時間だったそうです。1階にある店とはいえ相当な揺れで、割れ物が多い飲食店ということもあり、店内はガラスの破片が散らばって、カウンター裏などはひどい状態になったことが、お店のブログにも出ています(こちら)。

 この記事を読んで、心配して店の様子を見に来られた近所の常連さんも多かったようです。
 隣のビル(パチンコ屋)は、3m×3mの壁が落下して、下にあった車がぺしゃんこに……。「福島でこんな大きな揺れってことは、これがもし関東の地震だったら、あっちではどんなひどいことになっているだろう。」と、とっさに学さんは考えたとか。
 2時間ほどお店の前の駐車場に避難していて、そのあと当日はテラスを片付けて、近所の人も数名一緒に、ストーブをつけて夜明かしをしたそうです。
 家には戻らず、泊まり込んでの数日間。店内の片付けにもかなりの時間がかかり、やっとのことで再開できたのは22日。たまたまですが、わたしはその日、お昼頃久しぶりに福島駅前まで来て、「レ・フルール」でランチを食べたのでした。ツイッターにその時のツイートが残っています。
 「駅前に来ています。ただいま、ごひいきのフレンチのお店「レ・フルール」。なにごとにも動じない、シェフの顔はいつもどおり。飲み物は、ミルクが必要なもの(カフェ・オレとか)はだめみたい。」(実際のツイートは、こちら
 「地震警報が出た直後、シェフが「出口はこちらになります。無銭飲食はされないように。」先払いがいいのかも。」(実際のツイートは、こちら
 このちょっとしたユーモアがたまりません。

 この年、3月の売り上げとしては過去最低。本当なら送別会などで賑わうはずが、例年の4分の1程度でしかなかったとか。仕入れを多めにしていたので、お店で寝泊まりしていた間、自分たちが食べるものには困らなかったのが、不幸中の幸い。
 そのころの学さんのいらだちのようなものが、2011年4月1日のブログ記事にも出ていました。書かれてしばらくしてからこれを読んで、わたしも「レ・フルール」にごはんを食べに行った記憶があります。今回お話を聞いて、この言葉の背後にある彼の気持ちが、初めてちゃんとわかったような気がします。
 「心が折れたら何も始まりません。/こんな時だからお酒飲もうよ!」
 「中央から来た居酒屋にお金使ってる場合じゃないのですよ!」
こちら

 地域の経済は、地元の人間や企業が、地元で消費や事業をすることで回っていくのですよね。でももちろん、お金だけの問題ではありません。学さんは、親しい同業の方と、「レ・フルール」店内でしばらく生活をともにして、食事を出していました。近くの飲食店のご主人は、避難所で炊き出しをされていたし、隣の美容室では水道が使えるようになった後、無料シャンプーのサービスなどをしていました。レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』(亜紀書房)に描かれているような、「無償の助けあい」が、実際に行われていたのが、この時期の福島。
 でも、だったら。余裕ができたら、地元の店に人が戻ってきて欲しいじゃないか、ということだったのではないでしょうか。
 
 訴えかけた甲斐もあってなのか、4月の売り上げはかなり回復。今にいたるまで、「細々ですが、やっていけています。」という状態になったようです。
 福島市内に実家がある学さんが、「やはり地元福島で飲食店を開きたい」と考えるようになったのは、25歳頃。原発事故後も、「避難は考えなかった」。「よそへ行っても、収入ないですからね」。(ほかのお店で話をうかがっていても、こうおっしゃる方はたいへん多いです。)
 「実家の周りには農家がたくさんあって、同級生も農業をやっている。その人たちを見捨てられない。」だから、あえて「福島産の食材を使います」と、ブログでも宣言しました(先ほどの4月1日付記事)。ただ、食べたくない、という人のために、県内食材を使わないものも、メニューには用意されています。
 「震災は、自分がやりたい方向を見直す、いいきっかけだったかもしれないです。」
 今後はこぢんまりとしたかたちで店をやっていきたい、という言葉で、お話は締められました。

 なお、「レ・フルール」ですが、福島駅東を出て、駅前通りの「なか卯」がある角を曲がった先、ビルの1階にあります。
 店内には30席、テラスには10名ほどさらに座れます。現在は、ディナータイムだけの営業。(ランチは予約のお客のみ。)コース(要予約)かア・ラ・カルトで。フランス各地のワインもグラスで楽しめます。頼んだものにもよりますが、ご予算はだいたい3000~4000円くらい。季節によってはジビエも。今はちょうどりんごの季節なので、デザートのタルト・タタンが絶品で……おっとっと。(よだれを拭くしぐさ)
 このお店、以前福島大学行政社会学部に所属していた田村理さん(現在専修大学教員、フランス憲法史)の著書、『国家は僕らを守らない』(朝日新書)にも登場します。福島市新町にあった移転前のお店も雰囲気がよかったのですが、駅前に移った現在も、フレンチ・カフェ風でとてもすてきなお店です。パリ在住歴が長い人を連れてくると、たいてい「なつかしい!」と言ってくれます。

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福島から、未来へ――SF作家・評論家を大学に迎えて

昼の震災対策室からおひさしぶりです、清水です。

このブログをはじめてから、更新間隔が最も空いてしまったのではないでしょうか…反省。
最近は、夜室長もぴたさんも、雲隠れしたかのように顔を見ません…うーむ。

そして、私自身も、前回の更新以降身動きが取れず…反省。

なんか、最近こんな書き出しばかりですね…反省。

という惨状の中で、記事を寄稿してくれる方がポツポツと・・・ありがたや。

今日は、高橋準さんからいただいた「福島から、未来へ」という記事を掲載します。

ぜひ、文末のリンクと合わせてご覧ください。

ではでは、準さん、よろしくおねがいします!

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 去る7月28日、4人の外国人SF作家・評論家が、福島大学を訪れました。パット・マーフィーさん(『ノービットの冒険』作者)、パオロ・バチガルピさん(『ねじまき少女』作者)、呉岩さん(中国のSF評論家)、ドゥニ・タヤンディエさん(フランス人、現在立命館大教員)。この4人は、第二回国際SFシンポジウムのために集まり、各地を行脚しながらシンポジウム、講演会をこなしていらっしゃいました。その旅の終着点が福島になった、というわけです。
 といっても、来福は最初から予定されていたわけではありませんでした。わたしのところに、SF・ファンタジー評論家の小谷真理さんから、「シンポジウムのメンバーが、せっかく日本に行くのだから(註:もっともドゥニさんは京都在住)、福島にも行きたいといっているんだけど」という連絡をもらったのが、7月4日。シンポジウム・ツアーは7月20日からですので、日程のわずか2週間ほど前。けっこう泥縄です。(シンポについてはもっとすごい話も聞きましたが、ここでは割愛。)
 「震災と原発事故や現在の福島について、シンポジウムに参加する作家たちにレクチャーしてくれませんか」――まとめ役である小谷さんと巽孝之さん(慶応大)から、こう頼まれてしまっては、イヤとは言えません。(実は昨年、お二人に福島大学で講義をお願いしたという弱みが。)さっそく、セミナーの企画を立てることにしました。
 前日27日には、東京でのパット・マーフィーさんの講演会にも足を運び(彼女のサインがほしかったという説もあり)、打ち合わせの上で、最終的にはセミナー全体は、次のようなかたちに。

[1] 震災と原発事故、避難、そして福島の現状(レクチャー)
[2] 福島大学の避難所について(レクチャー)
[3] 福島からの声(スピーチ)

 [1] は、最初一部をまかせようと思っていた人が地球の裏側に行っていたりして(泣)、しょうがなくすべてわたしが。[2]は、避難所の責任者だった鈴木典夫さんとかいいなと、思っていたのですが、当日は出張で不在ということで、避難所運営にかかわっていた人間発達文化学類卒業生の伊藤航さんに。そして[3]は、福島市在住のSFファンの方や、原発立地自治体出身の方に、ショートスピーチをお願いしました。
 セミナーには、シンポジウムメンバーのほか、通訳の原田さん(アメリカの大学院でSFを研究されているとか)、翻訳家の嶋田洋一さん、呉さんが教えている大学の学生さん(日本のアニメが大好きと、あとでうかがいました)なども参加。また、ジャーナリストの藍原寛子さんが取材にみえました。ときおり英語で、ときおり日本語+逐次通訳で、という形で進むなか、シンポジウムメンバーはみんな熱心に聴いてくださり、要点をついた質問がいくつも飛び出しました。あまりにもの熱心さに、みんな話す予定のなかったことまでつられて話し始めたり、一時帰宅のときの写真をネットにアクセスしてスクリーンに映して見せたりと、予定した時間はすっかりオーバーしてしまいました。

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(写真1:左から、パオロ・バチガルピさん、パット・マーフィーさん、通訳の原田さん、呉岩さん、ドゥニ・タヤンディエさん。)

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(写真2:左が小谷真理さん、右が巽孝之さん。)

 「広島から福島へ。シンポジウムは、今年日本SF大会“こいこん”が開催されている広島からスタートした。核兵器が歴史上初めて使用された場所だ。そして、原発事故が起きた福島が終点になった。今回の旅は、地理的移動でもあったが、同時に時間をたどるものでもあった。」
 これは、コーディネータの巽さんのことばですが、ひとこと付け加えるなら、「きっとこの先、作品を通して、未来へとたどりつくでしょう」ということ。将来、SF作品の中に生かされたら、福島でのさまざまな経験を、また違った形で受け取ってくれる人が、たくさん増えることになるでしょうね。期待して待ちたいと思います。※1
 終わった後は、市内の「陽風水」(川俣シャモ料理とワインのお店)へ移動してディナー。ワインはお店のリストからわたしがセレクトして、ご賞味いただきました。好評で次々とボトルが空いていき……いえ、どうも皆さん、すでにこれまでも道中で、毎晩飲んだくれていたようですけどね。(笑)
 (シンポジウム等の企画やメンバーの詳細は、末尾のリンクを参照してください。最後のTogetterには、福島セミナーや「陽風水」での食事会の様子なども入っております。また藍原寛子さんが、記事を8/17発行の『ビッグイシュー』に寄稿されています。)

※1もっともSFに限らず、作品の中に震災やその中での経験を、そのものとして織り込むのは、決して容易ではない。いずれもSFではないが、事例を挙げると、たとえば三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』の4巻では、東日本大震災の被災経験を持つという人物が登場する。また、田中芳樹の『魔境の女王陛下』(薬師寺涼子シリーズ)では、原発事故後であるという設定で、さまざまな小ネタがふられている(ただし、小説の舞台はシベリア)。ファンタジー系ライトノベルである和ヶ原聡司の『はたらく魔王さま!』では、阪神淡路大震災当時に神戸在住であった女性が、主要登場人物に近しいという設定で登場する。シリーズ1巻では、敵対するものの攻撃によって、主人公たちが新宿地下街で生き埋めになりかかるというエピソードがあるが、これは建物の下敷きになって圧死者が多く出た、阪神淡路大震災を踏まえてのものである。しかし作者は、シリーズ5巻の「あとがき」で、「東日本大震災については本作中では描かない」旨の宣言をしており、作家にとって震災というテーマが、重く、困難なものであることを示唆している。なお、福島県南在住のマンガ家・端野洋子による『はじまりのはる』は、住民の目線で、原発事故後の福島を描こうとしている作品で、今後の展開も含めて興味深い作品である。「来訪者」の視点から震災後の福島を描く、雁屋哲原作『美味しんぼ』と比較して読まれるとよいと思う。
 なおSFについては、最近の大震災を直接作品に取り入れたものは見たらないが、「災害を描いたSF」ということでいえば、数多くのものが該当する。たとえば、恒星の新星化を理由とする、惑星単位での避難が描かれたアイザック・アジモフの『宇宙気流』や、同じ設定ではあるが、むしろ避難の計画策定と実施にストーリーのほとんどを割いた、眉村卓の『消滅の光輪』(「司政官」シリーズの長編)などである。今回の長期化している避難の経験は、たった数行程度で、惑星単位の避難を書き飛ばしたアジモフのものよりも、むしろアジモフへのオマージュとして書かれた眉村の作品と重ねてみるべきであろう。もともと「司政官」シリーズは、植民惑星上での現住知性体との文化接触や、惑星統治を描く政治学的SFではあるが、『消滅の光輪』において眉村は、避難とはまさにさまざまな政治的・経済的・社会的利害が複雑にからまりあった過程であるということを、克明に描写しようとしている。その意味では、日本SFにおける災害SFの嚆矢ともいえる、小松左京の『日本沈没』も、本来小松が書きたかったという、「日本沈没」後に世界を漂流する、日本人たちのディアスポラ状況を、小松自身の筆で描ききって欲しかったと思う(谷甲州が作品にしている)。そのほか最近の作品では、上田早夕里の海洋SF『華竜の宮』が、地殻変動と海進後の地球を舞台に、海洋民と陸上民の政治的・経済的・文化的確執を描いている。わたしたちの生きる時代は、常に複数の大変動の狭間=「間災期」であることや、2011年度の「センス・オブ・ジェンダー賞」を受賞することになったジェンダーやセクシュアリティの設定など、さまざまな視点からの批評に耐えうる作品である。


◯関連URL
日本SF作家クラブのシンポジウム案内ページ
7/27のパット・マーフィーさん講演会の案内
写真で振り返る第2回国際SFシンポジウムと海外ゲスト