ガンバロウ福大!行政の「結」

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災をきっかけに、福島大学行政政策学類の教員有志でブログを開始しました。福大行政に関わる情報共有・情報発信の場として、このブログが、読者のみなさんとわたしたちの、また、みなさん同士の結節点になれば嬉しいなと考えています。一緒に手を携えて、この難局を乗り切っていきましょう。     (2012年3月26日記)

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仮設住宅での大カラオケ大会‼-葛尾村斎藤里内仮設

 こんにちは。ぴたです。
 ぴたのゼミでは、震災以降、いろいろな仮設で、それこそ様々なイベントを開いてきました。
 一躍有名になった足湯活動もやりましたし、仮設のみなさんと弁当を一緒に食べてお話ししたり、たい焼きを焼いてお配りしたり、さらには、プランターと野菜苗をセットにして配る「緑のカーテンプロジェクト」などもやりました。

 こんな言葉を聞いたことがあります。

 「放射能が降って避難生活を送ることになるなんて、考えたこともなかった」。

 本当にそうだと思います。
 そう話をしてくれたのと同じ方は、こうもおっしゃっていました。

 「自分が大学の先生と熊本大学に行って、大学生や先生の前で話をすることがあるなんて、考えたこともなかった」。

 この方には、僕のお願いで一緒に熊本大学に行っていただき、二人で「今の被災地」について、お話する機会がありました。
 こうもおっしゃっていました。

 「ときどきこんな思いもしなかった機会をもらえる。だから、いろいろあるけど、いいんだ。ありがたいことだな…」。

 どんな思いでこういう話をされたのか、今でも時々、考えることがあります。

 「避難生活」も「熊本旅行」も、この方にとってはどちらも、「想像もできないようなこと」、だったのでしょう。
 でも、感謝したくなるような「想像もできなかったこと」、ってのがあるのか、と、そのときはっとしたことを覚えています。
 「旅行」のような小さなことでも、心から喜んでくれる人がいる。ぴたにはそのことが驚きでした。

 その後、仮設のみなさんにとって、「想像もできなかったほど楽しい経験って何だろう」、と考えるようになりました。避難生活のような悲しい体験ではなく、旅行のような楽しい体験をしてもらいたい、それも「想像もできなかった」くらい。

 そんな体験をしてもらうことが、学生と僕でできるのだろうか?いや、難しいことはわかっています。でも…
 ない頭を絞って思いついたのが、「ダンス」でした(2015年度)、笑!

 新入生を半分騙して(「大学生になったんだから、ダンスくらい踊れなければなりません!」)ダンスを練習し、新入生ゼミでは、アルゴリズム行進から、妖怪体操第一、恋するフォーチュンクッキーを徹底的に練習し、男子学生には特にプリキュアを学んでもらい、仮設住宅で披露しました。仮設の皆さんにはとても喜んでいただき、そのお返しに、盆踊り「葛尾川」を教えてもいただきました。仮設の方のなかには、涙を流しておられた方もいました。少しは、目的に近づいたのかもしれません。

 「ダンス」の翌年、2016年度はどうしよう…またまた、ない頭を絞っていた時に、4年生くん(櫻井君、さく)から発言がありました。

 「カラオケ大会がいいんじゃないか」。

 うん、それいい!
 ぴた選曲で学生さんが歌う(学生さんには選択権なくて、すみません、フフフ)。
 仮設の皆さんにも加わっていただき、できればデュエットも…。
 今年はこれに決めました。

 7月8日(土)。
 学生手作りのカレー、みんなで作った柏餅、仮設の方々の手になるごんぼっぱもちを食べながら、大いに盛り上がりました。

からおけ1
大カラオケ大会、開始!トップバッターは緊張する…

kashiwamochi2016.jpg
柏餅づくり

karaoke2.jpg
最後は学生と永沢さんのデュエットでした

 驚きました!新しい発見も。
 学生は意外と歌、ヘタなんじゃないかなあ…。
 仮設のおじいちゃん、おばあちゃんの歌は、うまい下手を超えたところに価値があって、本当に味がある!
 男子学生はおばちゃん歌手の、女子学生は若手女性歌手の歌が合っていて、おじいちゃんおばあちゃんは、なんでも合う!
 大泉逸郎の「孫」なんて聞いたの、何年振りだろ…それも言い出しっぺのさくが歌ってました、笑。

 仮設住宅でおじいちゃんおばあちゃんとカラオケ大会を共催するなんて、学生も「考えたことなかった」でしょう。
 葛尾のみなさんにとっても、考えたこともなかったほど、楽しい時間を過ごしてもらえたかなあ。

 さて、来年の1年生には何を仕掛けるか…またまた考えます。
 ぴた
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熊本大学に行ってきました!

 こんにちは。ぴたです。

 先日、おやと一緒に、熊本大学に行ってきました。
 熊本県や大分県での大きな地震を目のあたりにして、この遠く離れた福島で自分にはなにができるのか、多くの人が悩んでいました。とくに、東日本大震災と原発事故によって、さまざまな形で傷つき、また、全国から多くの支援をいただいたふくしまに住む一人として、自分たちも何かしないといけないのではないか、と思っていました。

 とはいっても、なかなかどうしたらいいのか分かりません。

 ちょっとした何気ない言葉や態度に傷ついたりした経験を持っていたこともあり、声をかけることにも、また、訪ねていくことにも、臆病になっていたような気がします。

 そんななか、とても安易な方法かもしれませんが、いつかはもっと違ったかかわりができるから、と自分を納得させながら、義援金を集めて送ろう、という気になりました。
 熊本大学は、大学時代の友人が教員をしていることもあり、交流がありました。また、おやも、大学時代の先輩が熊本大学にいて、いろんな形で世話になっていました。そこで、二人で話し合い、行政政策学類内で有志の義援金集めを行って、熊本大学の法学部・ロースクールのみなさんに届けようということになりました。

 熊本大学の研究室でも、本棚が傾き危険な状態が放置されていると聞きます。
 熊本大学の学生さんたちも、各地で募金集めをしたり、避難所でのボランティアなど、活躍しているようです。
 そして、避難生活をされ、また自宅が何らかの被害に会われた方もいるようです。

 ぴたとおやの申し出に、行政政策学類の多くの人たちに賛同していただき、261,000円が集まりました。ありがとうございます。
 6月1日には、それをお届けしてきました。

 熊本大学では、法学部長の深町公信先生、法務研究科長の松原弘信先生、そして、魚住弘久先生(社会文化科学研究科)、また原島良成先生(法務研究科)、三谷仁美先生(法学部)にもご同席いただきました。皆さんからとても感謝していただきました。建物内で何人かの方々にお会いしましたが、その際にも、個々に感謝の言葉をいただきました。お届けした身としては、なによりでした。

熊本大学義援金お渡し


 ぴたは、南阿蘇村や益城町を車で走り、南阿蘇村の温泉施設で一泊してきました。
 建物の崩壊がひどい地域も目の当たりにして、言葉もありませんでした。
 特に、同じ集落でも、建物が壊れているところと、ほとんど無傷のように見える建物が併存しているところがあることに大きなショックを受けました。また、自宅が崩落していても世の中は刻々と動いており、壊れた自宅を前に、まずは片づけるところから始めなければいけない人々のまわりで、多くの車が走り、世の中は先に進んでいます。「何から始めたらよいのか…」と感じる人と、世の中は止まってはくれない、というギャップのなかで、多くの人が心の「焦り」に苦しんでいるのではないか、と思いました。

 また、外輪山の内側に暮らす人たちは、現在、阿蘇大橋の崩落などもあって、外輪山の外側に出るのに大変な時間がかかります。渋滞に加え、時には霧がかかって、熊本市内に出るのも一苦労のようでした。

 やはり、遠く離れたところからはわからないことがたくさんあるんですね。

 「義援金を集めて届けること」、以外の熊本とのかかわり方、今後も考えていきたいと思っています。

震災後の福大生―ぴたは政治学者か えーウソでしょ~!(2)つづき

 ぴたです。おはようございます。
 GWで学生が大学にほとんど残っていないので、学内も寂しいです。
 先週、大学近くの集落「田沢」地区を訪ねてきました。地区活性化協議会のみなさんと、僕と、そして、ゼミの学生との協議です。
 今年は、「たざわさんず」という直売所運営のお手伝い、さまざまな「手業」をもつ集落内の皆さんへのインタビューと実習、集落のみなさんが作る茅葺屋根の東屋づくりなど、を一緒にやらせていただくことになっています。
 こういう場面では、「現場にいる」、という感覚が、強くします。
 学生がいると、集落のみなさんもうれしそうです(僕一人のときとは違います…笑)。
 学生も、いつもと違う雰囲気に戸惑っているようですが、一歩前に進んだような感じがします(研究室でのんきにお菓子を食べているときとは違います…笑)。
 教員として、「がんばらなきゃなー」、と思う瞬間です。
 前回の続きです。今考えると、究極の状況の中で、学生さんも、そして行政政策学類も、ずいぶん頑張ってたなあ、と感慨深いものがあります。

*****
□学生による学長への要望書提出

 4月19日の評議会で大学執行部は、5月の連休明けに大学を再開することを決定した。行政政策学類は大学の早期再開には慎重な立場をとっていたが、全学であれ学類であれ、大学再開の方針が教員のイニシアティブで決められていること、学生の意見や判断が尊重されていないことに危機感をもった私たちは、大学の再開に関して学類生たちがどのような意見を持っているのか、その意向調査を行うこととした。4月11日から18日の間で実施されたこのアンケート(記述式)には181人からの回答があった。

 当時、原発の状況が安定するまで大学再開に反対であった私にとって、意向聴取の結果は大きな驚きであった。予定通りの大学再開(5月9日「新入生を迎える会」、5月12日通常授業開始)に賛成83名、反対42名、どちらでもない56名で、全体の46%が大学執行部の方針に賛成だったからである。回答者は新4年生(4月から4年生)の割合が多く、そのうえ新4年生の賛成率は66%、新3年生が35%、新2年生が40%となっており、卒業が近い4年生に「通常」への復帰の意向が強いことが分かった。しかしながら、より詳細にこのアンケートを読むと、「賛成」としている学生にあっても、実際には様々な不安を抱えており、無条件で賛成という学生は少ない。また、賛成、反対、どちらともいえないという3つの回答に共通の要望として、①大学側が学生に対して説明責任を果たすこと、②原発事故や余震に対して十全の準備をしておくこと、③授業に出られない学生に対する特別な措置が必要であること、が読み取れる。どれももっともな要望ばかりであった。大学再開の日程が迫るなか、私たちがやるべきことはまず、こうした学生の要望に応えることだった。

 そんななか、学生の間からも次第に、大学の再開にあたって学長に要望書を提出しようという機運が高まってきた。とくに、震災後も県外出身の学生が多数残っていて、震災直後は食料や情報の共有などで学生同士の協力関係が深まっていた学生寮や、避難指示を受けた飯舘村を研究フィールドとしていた大学院生が中心となって、学生の意見や要望をまとめ、それを学長に届けようという活動が始まった。彼らは、震災以降たびたび行政政策学類震災対策室に出入りしており、そして私たち教員が学生の意向聴取を行ったことに刺激をうけ、全学の学生団体を動かして福島大学生の意思を示そうと積極的に動き始めた。私は、この動きのとりまとめ役を担った地域政策科学研究科の木村義彦さんのかつてのゼミ教員だったこともあって、学生間協議に供する原案の作成や意見の集約、要望書への反映などについて、よく話し合っていた。

 福島大学には、長らく続いてきた「三者自治」の歴史がある。学生、職員、教員の三者が対等な立場で、大学運営に関わろうという理念は、毎年1回開かれる「キャンフェス」というイベントに具体化されている。「キャンフェス」では、その年のテーマに合わせて、三者が同じテーブルで議論し合う。学長選挙や学類長選挙でも、教職員の選挙に先んじて学生の意向投票が行われ、教職員はその結果を踏まえて最終的な投票を行うのである。大学再開直前の5月6日に学長に提出された「安心安全な学生生活確保のための要望書」も、そうした伝統のなかで書き上げられ、提出されたものである。この要望書には、4学類の学生自治会代表、3大学院研究科の学生自治会代表、3学生寮長、サークル連合会代表というすべての学生団体の代表が名前を連ねた(全文は→コチラ)。短期間で「すべての学生からの要望書」をまとめ上げた木村さんの手腕には脱帽するしかない。また、要望書は直接、学長に提出されている。震災後に、寮生の家族が福島に残った自分たちのことを心配するだろうから、という理由で、葵寮(女子寮)の出来事を積極的にブログ公開してきた松波さんは、私たちとの話し合いのなかで出てきた、「アポなしで学長を訪問し、要望書の受取りの様子を録画してくる」というアイデアを、難なく実行してきた。事前に訪問を申し込んだり、録画の許可を取ろうとすると、事務職員が同席して文書を受け取ったり、録画を拒否されたりするだろうから、あくまでアポなしで、かつ学長室に到着する前から(つまり、学長に録画の許可を取らずに)録画を始めることにする、というアイデアの勝利であった。「言い訳が多かった学長」が「『おっしゃるとおりです』ばかりを連発していた」(ともに松波さん)というこの動画(非公開)は見るものを不安にさせる。学長の頼りなさと、木村さんや松浪さんたち学生たちの自信にみちた積極性との鮮やかなコントラストが眩しかった。

□放射能を学ぶ

 福島県に原発が集中的に立地していることを知りながら、その社会的背景や危険性に鈍感であった私は、放射能が身近に迫ってくるまで、その物理的な特性や人体への悪影響について漠然とした知識しか持っていなかった。原発爆発後は、テレビやインターネットでさまざまな立場の多くの情報があふれ、冷静に放射能のことを学び考える環境にはなかった。あるときたまたま、京都大学原子炉実験所の小出裕章先生の解説を聞いたことがきっかけで、小出先生の本を読み、解説DVDを見てみると、震災以前からの地道な行動と穏やかな語り口には説得力があり、それ以降、小出先生の発言はできるだけ見逃さないようにしていた。そんな折、小出先生の解説DVDを購入した映像制作会社から連絡があり、福島でDVDの上映会を開きたいが協力してもらえないか、という。小出先生の解説をぜひ多くの人に聞いてもらいたいという思いがあって、この申し出を受けることにし、3月までゼミの担当をしていた1年生(このときすでに2年生になっていたが)数名に、「手伝ってもらえないか」と声をかけた。会津若松出身の高畑さんと宮城県出身の曽田さんが心よく引き受けてくれることになった。高畑さんによれば、「何かしらのボランティアをしなければならないが、いざ何をすればいいのかという問題を前に悩んでいた」らしく、できることなら何でも、という考えだったらしい。学生たちは、5月21日福島駅前「コラッセふくしま」、5月22日二本松市男女共生センター、5月25日福島大学の3会場での上映会に協力し(上映会は県内7か所で開かれた)、彼らにとって震災後初めての「ボランティア活動」となった。

 興味深かったのは、この活動が、学生たちにとっては「何かのお手伝いをした」、というよりも、自分たちにとって新しいことを学んだ、これからもっと学んで行きたい、と思うきっかけとして受け取られたことであった。このお手伝いを契機に、「何も知らなかった原発と放射能に関して自分たちでさらに勉強していきたい」、という彼らは、行政政策学類に用意されていた「学生企画科目」という授業科目を立ち上げることを申請し、認められた。この科目は、学生グループが学びたいテーマを設定し、1年をかけてそのテーマに取り組むもので、研究計画とメンバーに教員1名を入れて申請し認められれば、最大10万円の予算が付くという学類の目玉科目の一つであった。彼らはこの科目に、「侍として考える―外からのふくしま、内からのふくしま、君の心のふくしま」というタイトルを付けた。「侍」というのは、この授業科目のキャラクターを作ろうと描いた絵が「侍」に見えたから、という身もふたもない理由から名づけられたものだが、その副題は、会津若松出身、宮城県出身という「外」からの視点と、福島に住む大学生という「内」からの視点が往々にしてずれているのではないか、という問題意識から名づけられている。そのズレがどこから生まれるのか、それを解明して、最後には「内」「外」のズレを克服した自分なりの「君の心のふくしま」を得たい、というのである。気が付いた時には、私もメンバーの一人にとして申請書に名前が記載されていた。

 「侍プロジェクト」(名称としては「君の心のふくしまプロジェクトの方が相応しいが、いかんせん長すぎる…)はその後、プロジェクトのきっかけとなった小出裕章先生に直接話を聞きに行くことを目標に、さまざまな企画を立てた。福井県敦賀市の原発の見学、浪江町から大阪に避難している方との面談とインタビュー、敦賀市議でさまざまな妨害を受けながらも市議として反原発運動を続ける今大地晴美さんや日本科学者会議福井支部代表幹事の山本富士夫さんの訪問とヒアリング、モンゴルの核廃棄物処分場問題に取り組む大阪大学今岡良子先生のゼミ生のみなさんとの交流など、充実したプログラムが整った。すべて学生の手になる企画である。

 浪江町からの避難者の方が、避難先の会津若松で、「放射能汚染が怖いということで宿泊を断られた」という話をした際に冗談半分で使った「会津は敵だ」という言葉に、会津若松出身の高畑さんがひどく困惑し、自宅前に人糞がまき散らされるという嫌がらせを受けたという今大地さんの体験談に全員が唖然とした。福島に残っても非難され、県外に避難してもまた批判される福島県民の悲惨さを悲しみ、避難先の人々のあたたかな支援と優しい心遣いに感激した。また、敦賀の商店街の方が語る「原発なしでは生活が成り立たない」、という厳しい現実、日本の核廃棄物の最終処分場としてモンゴルが狙われているという今岡先生の話など、福島にいるだけでは伝わらないことばかりで、学生とともに私も大きな衝撃を受けた。

 そして、小出裕章先生との懇談。2時間近くにわたる懇談の中で先生は、震災以前から変わらず主張され続けてきた持論に加えて、「福島から来た若い学生たち」だけに語ってくれたことがある。学生たちの正直な「悩み」「愚痴」のようなものへの先生への回答であったが、その後の学生たち、そして私にとっても大きな指針となったことばであった。

 「福島県に住む限り、今日ここに来てくれた学生のみなさんも被ばくは避けられないのです。みなさんがそれを避けられないとするなら、被ばくのリスクをこえる“何か”をつかみ取るしかありません」。

 それ以前の懇談で、「被ばくによるリスクを考えるうえで、大学生は『子供』と考えるべきか、『大人』と考えるべきか」、という私の質問に対して、小出先生は、「大人と考えてよいと思う」、と答えていた。あらゆる被ばくは避けるべきだが、福島に住んで大学生活を送る皆さんが福島に住み続けるという決断をするのなら、「そのリスクを超える何か」をつかみ取れるかどうかが学生のみなさんの人生を決める、という言葉であった。

 「侍プロジェクト」の高畑さんにとって、この言葉は強く印象に残ったようで、「いまでもこの言葉を反芻し、活動を行おうというエネルギーをもらっています」、と当時のブログに書き込んでいる(「侍として考える…のブログ」→コチラ) 。これまで私は、小出先生が、「原発を許してきた大人たちには責任がある。放射能汚染地域の農業と生活を守るためには、大人たちが率先して被災地の野菜を食べるしかない」、と主張していることを知っていた。しかし今回の学生企画による小出先生との懇談で、自分は「原発を許してきた大人たち」であるとともに、原発事故被災地である福島の国立大学で学生教育に携わる一人として、「被災地の野菜を食べる」以上の責任があることをはっきり自覚できたように思う。できる限り被ばくを避ける努力をしながら、にもかかわらず被ばくを免れないとするなら、その「リスクを超える『何か』」を学生がつかもうとすることを、どこまで自分や大学が支援することができるのか…これが、私の責任なのではないか。ドナルドのいうように、学生がつかもうとする「何か」はどんなことでもいいし、学生たちもその模索を始めている。そして、木村さんや松波さんのように、そのための行動を作り出す自信に満ちた積極性は学生に備わっている。だとすれば、自分がやるべきことは、できるだけ多くの、そして多彩なきっかけを作り出すこと、学生が活動するに際しての障害をできるだけ取り除くことではないか。2011年6月の学生とともに実現した大阪訪問の大きな成果であった。


ぴたは政治学者か? えー、ウソでしょ~!(2)

 こんにちは。ぴたです。
 熊本や大分での大きな地震に、多くの人が心を痛めています。
 東日本大震災のあと、やるべきことがたくさんあり、苦しんだ私たちでしたが、今回は、「自分には何ができるのだろう」、と悩んでばかりいます。当時、多くの方々からいろいろな支えと支援を頂いた私たちとしては、できる限りのことをしたいと思っているのですが、「何を」、という最も大事なところがなかなか見えません。
 熊本や大分など九州の皆さんがこれから、長い間にわたって、避難生活や復興という課題に取り組まなければならなくなることを考えれば、遠く離れた私たちにもできることが、これから見えてくるのではないかと思います。
 行政政策学類内では、「とりあえず」、ということで、義援金集めが行われ、近く、熊本大学にお届けすることになっています。
 また、大学としても、遅ればせながら、東日本大震災後の経験をお伝えする福島大学なりの取り組みを始めたようです。
 熊本大学にお世話になった知り合いがたくさんいるぴたも、東日本大震災の際の支援へのお返しを、少しでもできればと思っています。
 今日は、熊本大学の紺屋博昭さんの勧めで少しずつ書いている、「原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活」の続きを少し掲載させていただきます。以前、こちらにも載せてもらった記事(→コチラ)の続きです。

******
原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活(2)
(著者)福島大学行政政策学類 ぴた

□ はじめに

 実を言うと、私は、2011年3月11日に福島を襲った激しい揺れを経験していない。翌日からの高知市への出張を控え、実家の香川にある自宅に着いた直後であった。出迎えに来たはずの父親が、青ざめた表情で、「東北地方が恐ろしいことになっている」、と言っている。慌ててテレビをつけると、地震のニュースに加え、大津波警報が発令されて、東北地方が大変な事態になっていることを伝えている。南相馬市の波の音が聞こえるほど海岸近くに自宅のあった友人、岩手県釜石市に住む大学時代の親友の両親――その安否が気になる。その後、福島県内の原発が危険な状況に陥っているというニュースが加わり、不安で胸が張り裂けそうになった。
 そんななか、大学の同僚からは、「福島に戻ってこないほうがいい」、というアドバイスが届いた。「自分たちも、小さな子供を抱え、家族と福島を離れようとしている。県外にいるのなら、そこに留まるほうがいい…」。
 そのメールを読んで私は、逆に、福島に戻ることを後押しされたように感じた。自分には、幼い子供も守るべき家族もいないのだから。実家のテレビで福島の状況を見て以降、すぐにでも福島に戻りたいと思っていたが、それを躊躇する必要がない、ということに気付かされたのだ。その時、「これは自分がそうしたいと考えて決めたことなのだから、あとで後悔はしないようにしよう」、と強く思ったことを、今でもはっきりと覚えている。
 福島に戻りたい、と思った理由のひとつは、私の姪である。まだ中学生だった姪が、私が喰らいつくように見ているテレビの前を、携帯電話を使ったゲームをしながらうろうろとしていた。焦りで気分が悪くなっている自分と、のんびりゲームを楽しんでいる(ようにみえた)姪との間の意識の差に、私は次第に耐えられなくなった。東北に知り合いや友人がいるかどうかということが、これだけ大きな意識の差を生むという現実を、その後幾度となく感じさせられることになるが、震災直後の姪の振る舞いに、私は、「こんな人たちとは一緒にはいられない」、という切羽詰まった気持ちになった。
 もう一つの理由は、福島にいる学生のことであった。福島大学は全国で1,2を争う小規模国立大学である。大学全体で4年間にわたって少人数教育のゼミが必修科目となっており、私の所属する行政政策学類では、ゼミ単位でのフィールドワークが奨励されていることもあって、学生と教員との距離はとても近い。教授会を開く学類の「大会議室」は、時に、ゼミ単位で開かれるパーティーや芋煮会(東北の方なら分かっていただけるだろう、秋にはこれが欠かせない!)、ゼミを超えた飲み会、餅つき大会や映画上映会などの会場になる。教授会が、前日の「キムチ鍋」の匂いのなかで開かれるなどという大学は、おそらく、うちの学部だけであろう。当時私も1年生と3,4年生のゼミを担当しており、まさにすべての事態が不気味な破局へと突き進もうとしているなか、いま彼らがどうしているのか、そのことが頭を離れなかった。
 しかし、このときは、福島に戻って自分が何をするのか、何ができるのかについて、なにかはっきりとしたイメージがあったわけではなかった。学生のことが気になるといっても、地震、津波に加え、今後さらなる事態の悪化が予想される原発の状況をまえに、学生のために自分に何ができるのか、想像もつかなかった。さしたるアイデアもないまま、ただただ、「早く帰らなければ…」、という切迫した思いだけで、福島に戻ったのであった。
 福島大学の学生に対して、自分は何ができたのか、そしてできなかったのか――震災からこれまでの5年間、微力ながら私が大学教員として取り組んできたことを、今回はご報告させていただこうと思う。

□ ドナルドの言葉

 原発事故被災地の政治学研究者としての日常生活(1)(以下、「日常生活(1)」と記載)でご報告したように、私は、臨時教授会の翌日の15日に大学に出向いた直後、学類長に連れ去られるように学類の震災対策室のメンバーとなった。当日学類長室に集まった同僚とともに、さっそく学生の安否確認作業に取り掛かったが、この作業は震災対策室からの依頼に基づき、それぞれのゼミ担当教員(学類教員全員)が、担当するゼミの学生と個別に連絡を取る形で進められ、作業はおおむね順調に進んだ。4年間ゼミが必修で、かつ、ゼミ内でメーリングリストの作成が一般的だったため、3月17日までに95パーセント以上の学生の無事が確認された。過年度生でゼミ所属がない学生や、被災地域で連絡が取れない学生については、本人や家族への電話はもちろん、職場への連絡や各地の避難所の掲示板情報を確認するなどの方法を駆使し、3月20日には学生全員の安全が確認された。福島大学4学類中、行政政策学類がもっとも早く学生の安否確認を済ませることができたのは、日ごろから、ゼミ単位で、あるいはゼミを超えた形で開かれる、教員と学生の入り混じった「大会議室」の利用の成果でもあった。学生の安否確認は、「日常生活(1)」で詳細を記した「避難バス(帰宅支援バス)」とともに、震災直後の「緊急の」学生対応であった。
 学類生の無事が確認され、「避難(帰宅)」を希望する学生の県外への送り出しが終了したあと、私たち震災対策室が取り組んだのが、①今後、原発の状況がさらに悪化し、福島市内でも屋内退避や避難が必要になったときに備え、県内出身学生や県内に残る学生を迅速に避難させるための計画の検討、②学類と学生との意思疎通のツールとしてのブログの開設であった。
①については、屋内退避時(避難の準備)の部屋利用の計画づくりからはじまり、学生教職員の避難を受け入れてくれる他国立大学の洗い出し等を進めた。また、学類教員からは、福島大学のキャンパスを緊急避難的に会津地方や県外に移転する提案も出されるなど、学生・教職員の被ばくを避けるための方法が、さまざまな形で検討されていた。結局、大学が所在する福島市は政府の屋内退避措置や避難指示の対象地域とはならず、また当時の大学当局も、政府の方針とのズレが生じても独自の情勢分析と内部検討に基づいた行動をとるという姿勢を示さなかったため、教員個々人や学類の震災対策室でほぼ完成していた具体的な計画案は、大学レベルでの検討に付されなかった。しかし、県外の国立大学からも当時、福島大学に対して学生の避難を受け入れるといった申し出があったとの情報もあり、この時期における学生の被ばく防止の対策や避難計画をめぐる大学当局の対応は、その是非も含めて、今後さらなる情報公開と検討が進められる必要があろう。
 ブログの開設は、学類長である塩谷弘康教授の指示で行われた。3月25日に開設されたブログ、「ガンバロウ福大!行政の『結』」(以下、「行政ブログ」)は、震災対策室のメンバーを中心に、学類教員や学生、卒業生、学生の家族、他大学の学生などが幅広く寄稿し、大学の状況報告から在学生・卒業生の活躍、他大学からの応援など、極めて真剣な思索から、大学当局への皮肉と抗議、震災対策の日々のなかで起こる悲喜劇のふざけたの報告まで、多彩な記事に溢れている(ぜひ一度ご覧ください!→http://311gyosei.blog39.fc2.com/)。私は、ブログのなかでも最も多くの記事を書いた一人だろうが、ふざけた記事のなかに、学生に伝えたい大事なことをこっそり書き込む、というスタイルで、いつも楽しく、かつ真剣に記事を書いていた。
 3月27日に私は、地震であらゆるものが床に落下し、ひどい状況になっている研究室の報告をブログに書いた。「教員研究室のドナルド」と題するこの記事の最後には、研究室でひっくり返っていたところを私に救出されたドナルド・ダックが読者に向かってこんな話をしている。

 「みんな、自分が今やるべきだと思うことを、存分にやろう。ボランティアに行きたい人は行こう!仕事をしたい人は仕事に行こう!勉強したい人は勉強しよう!家族の安全を最優先に守りたいという人はそうしよう!ゆっくり休みたい人は休もう!友達に会いたい人は会いに行こう!」

 当時大学内では、震災後に福島でさまざまな業務をこなす教職員がいる一方で、家族とともに福島を離れ、自主的に避難生活を送る教職員もおり、出勤しない(できない)教職員に対する不満が学内で高まっていた。「職員としての当然の義務」としてではなく、「自分で決めたこと」として福島に戻ってきた私としては、今いる場所は異なろうとも、同じように、「自分で決めたこと」として県外に避難した同僚と同じ立場に立っているのであり、その意味で、「出勤は当然の義務」、との意見には強い違和感を持っていた。他学類では、その長が県外避難した学類教員に対してかなり強い調子で職場復帰を求めていたが、私は、行政政策学類内でもそのような声を耳にするようになっていたことを心配していた。私たちの学類では、教授会でこの問題を十分議論したうえ、塩谷学類長の判断もあり、「職場復帰」を教職員に迫るような指示、メールなどは一切出されなかった。福島に戻ってきた自分も、家族とともに避難した同僚も、どんな決断であっても、その決断をぎりぎりのところで尊重し、認めた私たちの学類の決断を、私は今でもとても誇りに思っている。多くの人が亡くなり、また原発事故と被ばくという前代未聞の状況のなかで、それに巻き込まれてしまった人たちが、「今自分が大事だと考えること」、「やりたいと心底思うこと」を、それがどのようなことであっても、自由に実現できるような環境をつくることを大事にしなければ、という思いで、ドナルドに語ってもらったのだった。
 当時の学生たちの行動もさまざまであった。沿岸地域から避難してきた方々を受け入れる避難所となった大学の体育館でさっそくボランティア活動を始める学生、外で何が起こっていようとも毎日大学に来て公務員試験の勉強を続ける学生、4月からの就職の準備を進める学生、友人を福島に残して自分だけ県外避難したことに罪悪感を持って教員にその思いを伝えてくる学生、研究対象であった飯舘村の知り合いを訪ねる学生、何かボランティアをしたいが実際にどういう行動をとればよいのかわからないと相談を寄せる学生…などなど、混乱のなか、学生たちも自分のやるべきこと、進むべき道を模索し始めていた。このころ、学生に対して自分に何ができるのか具体的に思いついたわけではないが、自分が何かをするとしたら「何のために」か、ということについては、少し見えてきたように感じた。

□学生による学長への要望書提出

(つづく)

「新!嶺風の部屋」 第3回

こんにちは!かなりお久しぶりの嶺風委員会です!

もう4月になってしまいましたが、今回は1月末に発行した「嶺風の小部屋」をもってきました。

「嶺風の小部屋」とは、
『嶺風』が創刊から25年という節目を迎えたことを記念し企画された、「嶺風の部屋」の出張版です。

このブログでも2回ほど行政政策学類生の活動について紹介しましたが、
「嶺風の小部屋」はその延長みたいなものです。
といっても、学生の活動というより嶺風委員の記事が半分を占めておりますが…。

学生の方々に寄せていただいた記事も興味深いものばかりで、
「嶺風の小部屋」がなければ知らなかったかもしれないことも、レポートしてもらうことができました。
ぜひ読んでみてくださいね。


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